SWITCH INTERVIEW ――鶴田真由「この世は、霧に映写された映像みたい」 後編

写真・浅田政志


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「大学ではなにを勉強してたんですか?」

「美術史です」

「ちゃんと学業に励んでましたか?」

「中学で成城に入ってからは、勉強という勉強は……ほとんどやってなかった。でも大学に入って専門になってからは面白かったです」

「どんなところが面白かったんですか?」

「美術のこと、民俗学、幽霊とお化けと妖怪の違いとかを真剣に授業でやっていて。大学って面白いところだなって思ってました」

「仕事の方は?」

「なんとなく仕事してましたけど、まだ忙しくもなくて」

「じゃあ学校には毎日?」

「行ってました。でも、学校に行くイコール授業に出るではなくて」

「友達に会いに行く」

「そうそう。学食にずっといたりね」

「当時、興味があったものは?」

「なんだろう? あんまりなかったかな。でもね、卒論を書こうとした時、自分はアートのことを何も知らないと思ったんです。うちは両親が二人とも美大卒だったから、そこについて行けてなかった。だから、どんな画家がどんな絵を描いているのかというのを知りたかった」

「なるほど」

「それで、いろんな学校の先生が集まって、ヨーロッパの五、六カ国をひと月かけて美術館ばかりまわるツアーがあったんです」

「先生が引率者でツアーガイドみたいな感じだ」

「そうです。それに参加することにして、一番心に残ったものを卒論に書こうと思ったんです。とにかく一気に鑑賞できるし、先生にも説明してもらえるし」

「そしてツアーへ参加」

「はい、それが大学3年生の時でした。それでね、そこにカメラを持って参加していたのが、長島有里枝さんだったんです」

「そうなんだ」

そのあと、長島さんがバックパッカーになって、ヨーロッパをまわっている時、わたしは長島さんと出会うのです。

「長島さんはどんな感じで参加してたんだろう」

「有枝里ちゃん、ショートカットで可愛くてね。カメラ持ってて、みんなと一緒にいるんだけど、いない感じでした」

「なんだか、その感じわかるような気がする」

「それでとにかく、いろいろ見てまわって」

「心に残ったのは、何でした?」

「ありきたりだけど、ゴッホの絵でした。それも好きになったのが晩年の絵ばかりだったんです。それで晩年何があったのかなって、調べたら」

「大変なことになってた」

「そうなんです。それで『精神病とゴッホ』という卒論を書いたんです」

鶴田さん、中学から大学まで通った成城学園を、いよいよ卒業します。

「在学中から、今の仕事をやっていく決意はあったんですか?」

「なんとなくで、あまり考えてませんでした。でも当時は、コマーシャルからドラマに行くという流れがあったんです。宮沢りえさんを筆頭に。わたしは、日石レーサー100という商品のコマーシャルで注目されて、ドラマに出演させていただきました。その時のコマーシャルの相手役が大沢たかおさんだったんです。それで、大沢さんに『今後はどうすんの?』って聞かれて。わたしは、就職活動とかするのかなと漠然と考えてたんですが、大沢さんに『でも、好きなんでしょう』と言われて、『現場は好きかも』と答えたら、『じゃあやればいいじゃない』と」

「現場が好きだった」

「はい。モノを作ってる現場のエネルギーが好きだったんです。でも、芝居が好きかと言われても、当時はまだわからなかった」

「芝居のレッスンとかはやっていたんですか」

「ほとんどないです。だから酷いですよね、なにもできなかった。まあ、今でもね」

「じゃあ、いろいろ大変だった」

「まずスタジオに入った時、だだっ広い真っ暗なところにセットが立っていて、そこだけポツンと明かりに照らされてなんだかオモチャみたいに存在していたんです。テレビってこうやって撮るんだと思った。それに、セリフの読み方もよくわからなくて、とりあえずこの人の後に言えばいいんだなと思って、相手が言い終わったら、次わたし、というくらい段取り芝居で何もできなかった。でもまあ、よく許されてたな」

「芝居が楽しくなりだした瞬間はあった?」

「芝居が楽しいなと思ったのは、ずっと後ですね。でも、現場が楽しいというのはありました。あとは、ミーハーだけど、小学生の時に、それこそ交換日記に書いていた人と仕事しているわけじゃないですか。でも、まぁ、そのこと自体がシュールすぎて、何だか上手く結びつかずにいたかもしれませんね」

とにかく現場に通い続けた鶴田さん。

「そうしたら、トレンディドラマ全盛期になって、『わたしも月曜9時に出たーい』みたいな。そんな程度でした」

「それで実際に出るようになる」

「はい。でも、月9とかに出られるようになった時、自分がやりたかったことはいったいなんだったんだろうって、その時につまずいちゃったんです」

「どんなふうにつまずいたんですか?」

「自分は結局、何が好きで、何をやりたいのか、そして芝居ってなんなんだろう、ってところにです」

「なるほど」

「まわりから見たら一番活動している時だったんだけど、自分は一番煮詰まってました。ずっともがいてました。初めて『スイッチ』に出た時もそうでした」

煮詰まった鶴田さん。

「でもね、その頃、面白いクリエイターといろいろ出会えたんです。雑誌とか広告とかで。それは良かったんですけど、優秀なクリエイターと出会えば出会うほど、ものづくりは何なのかってことにぶち当たっていくんですね」

「自分に置き換えると、何が好きで、何をやりたいのか」

「あの人たちは何を見て、何を表現したくて仕事をしているのか。あと、みんなが話していることも、『これはどういうことだ?』と思いながら聞いているわけです。例えば、コム・デ・ギャルソンの話をしていたら、とにかく買いにいって、これは何がいいんだろう、何がトンがっているんだろう、と着てみて考えるわけです。とにかく、そのようなことに触れて、自分の中で、ものづくりの原点とは何なのかを考えるようになった」

考えはじめた鶴田さん。



写真・浅田政志



「もっともわたしに影響を与えてくれたのは、北村道子さんです」

「北村さんだ! 北村さんからはどのような影響を」

「ある時、銀座で『愛と哀しみのボレロ』をリバイバル上映してて、一人で観に行ったんです。それで、ジョルジュ・ドンって凄い、やっぱり天才は生まれた時から天才なんだと打ちのめされて、自分の限界を垣間見たんです。それで帰り道に、北村さんに電話したんですよ。まだ公衆電話で、『いま、『愛と哀しみのボレロ』観たんですけど、天才は天才なんだなと思いました』って。そしたら北村さんに喝を入れられて」

「どんなふうな喝を?」

「北村さん、『あなたね、ジョルジュ・ドンが、どれだけ努力してると思っているのよ! ベジャールのところに入るのに、何回オーディション受けて、どのくらい練習したと思ってんの、あなたなんてその百分の一も努力してないくせに、いい加減にしなさい!』、ガチャンって電話を切られて」

「凄いな北村さん」

「それで、またさらに打ちのめされた」

「それからは?」

「北村さんの家に遊びに行くんです。最初に北村さんと会ったのは、JRAのコマーシャルだったんです。でもね、その時は北村さんのエネルギーが凄すぎて『遊びにきなさいよ』と言われても、わたしは、まだだなと思ってたんです」

「まだ自分に北村さんは早いと」

「はい。準備ができていません、という状態でした。でも、ジョルジュ・ドンの時には、もう沸点まできていたから、『遊びに行っていいですか?』と連絡して、北村さんの家に一人で行ったんです。それで、いろいろ話を聞いて。でも北村さんは感覚で話されるので、わかることとわからないことがありました。それに、その時見えたビジョンを突然話されるから、話も飛んだりしてついていけないところもあった。それでも入ってくるものは入ってきて、入ってこないものは、自分の保留ボックスに入れて、ある時それが開いて、『ああ、そういうことだったんだ』と時間差でわかったりね」

「やっぱり北村さんのパワー凄いですね」

「北村さんにとっては、そんなことあったかしら? という程度かもしれません。でもわたしにとっては、過度期にひっぱり上げくれた人です。北村さんってそういう方で、数多くの若者をひっぱり上げてる」

「それは、何歳くらいの時?」

「20代後半です」

「そこから具体的に何かをしたり?」

「インド、ネパールに毎年、北村さんが行かれていた時で、わたしも、今ならいろいろ吸収できると思ったから、北村さんに『一緒に連れてってください』って話したんです。そうしたら『今だと思うなら、わたしを待たずに、今行きなさい!』と。『それにインドじゃなくたっていいじゃない』って」

「それで?」

「屋久島に行くんです。初めての一人旅です。屋久島では、送陽邸という北村さんも行かれていたところに泊まって。しばらく屋久島で過ごしました。現地のガイドさんに森に連れていってもらったんだけど、森の中に入ったら、ちょうど雨が上がって、凄く綺麗だったんです。それで歩いてたら、何て言うかな、森の中に穴が空いていて、そこに入ったら違う所に行っちゃうな、とか、いろんなことを考えていて。それで森から出てきて、送陽邸のお風呂に入って、夕日を眺めていたら『ああ、この世は、霧に映写された映像みたいだ』と思って。その時自分の中で何かが変わった。それで東京に戻って」

「いろいろ変化していった」

「はい。とにかく、今と思った時に行動すると、いろんな出会いがある。そこで、付き合う人も出会う人もガラッと変わりました。それまでは学生の続きだったから。とにかく北村さんには、閃いた時に行動するということを教わりました。それで、芸術の根本は自然の模倣にある、自然の摂理の中に芸術の種があるんだということを感じることができたから、今度は、アーティストはどのように表現しているのだろうかと思って、ニューヨークに行ったんです」

「ニューヨークではどんな風に過ごしたんですか?」

「友達の家に泊まって、美術館に行ったり、芝居を見たり。それで、自然の摂理は、こういう風に芸術の中に埋め込まれているんだなというのを見てまわりました。そこが自分の人生の中で大きく変わったターニングポイントです」

「そこには北村さんがいた」

「そうです。それでインドに行ったり。その時北村さんから、壮大な手紙が送られてきたんです。『宇宙の中に浮かぶ青い地球は、あなたの魂そのもの』みたいな。それを読みながら、うわぁーって泣いたのを覚えています」

話を聞いていると子供の頃から聡明さがうかがえる鶴田さんですが、本人は、「26歳くらいまでは、スーッと温室で育ってしまった」と話します。その後、出会った人、とくに北村道子さんが良い意味でひっかきまわし、煮詰まった期間を抜けると、その聡明さは、さらにクリアになったような感じがします。閃きを実践して、人生を豊かにする。わたしも心に留めておきます。

わたしもそのように、できるようにしようと思いました。



鶴田真由 鎌倉生まれ。女優。近年の出演映画は『ゆらり』『DESTINY鎌倉物語』『海を駆ける』など。旅を中心にしたドキュメンタリー作品にも数多く出演。著書に、『ニッポン西遊記 古事記編』『神社めぐりをしていたらエルサレムに立っていた』、写真集『Silence of India』など。出演映画『日日是好日』が10月全国公開予定

戌井昭人 1971年東京生まれ。作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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