写真・浅田政志
▶︎前編はこちら
「専攻は演劇だったんですよね」
「はい。でもわたしは、早々、一年生の終わりころ、大阪芸大の先輩が作っていた『劇団☆新感線』に入ることになったんです。新感線はいつも人手不足だったので、後輩は、首根っこつかまれるように連れて行かれるんですが、わたしも、そのように連れて行かれ」
「学校よりも、劇団の方へ?」
「でも親に内緒でしたし、わたしもこの劇団に骨を埋めることは考えられない、このまま続けられるわけはないと思っていたから、劇団員にはならなかったんです」
「そのとき、アルバイトとかは?」
「最初は、ドトールコーヒーでジャーマンドッグを焼いてました」
「どこのドトールで?」
「天王寺の阿倍野地下センターという、まあ、ガラの悪いところでした。そこがちょうど電車の中継地点で、交通費も出るから、いいと思ったんですけど、ガラが悪くて、娼婦のおばちゃんたちの集合場所になっていて。社長って呼ばれてるポン引きのおじちゃんがいるんですけど、わたしは、『たかだちゃん、たかだちゃん』って呼ばれてて。おじちゃんは、『客ちゃうねん』って言いながら、いつも水だけを飲んでました」
「素敵な環境ですね」
「おじちゃんは、『あの娘おる?』って、娼婦のおばちゃんのことを、わたしに訊いてくるんです。『背の小さい、あの娘』って、それで、『まだです』って答えると、『わし来たって、言うといて』と言って帰ってったりして」
高田さん、いつの間にやら、ポン引きの連絡係にもなっていました。
「学校の授業は?」
「まあまあ、行ってました。午前中バイトして、昼学校行って、夜、劇団の稽古でした」
「劇団の練習だと、帰りが遅くなりますよね。奈良までだし」
「はい」
「親にはバレなかったんですか?」
「バレました」
「あれま」
「最初は『学校の先輩のお手伝いとかせないかんから、遅くなる』と言っていたんですけど」
「まあ、嘘ではない」
「嘘ではない。それで、母親が、その芝居は、どんなものかと観に来たんです」
「いよいよですね」
「そのとき、うちの先輩の古田新太が、変態のビリーという役をやっていて、わたしは、バックダンサーをしていたんです。そのビリーの写真が、丸い団扇にプリントされて、股間のところに穴が空いているのを、お客さんに配っていて、お客さんに、その穴に指を入れて回してもらって、『お前らのオーディエンスで俺は元気になる』といったことが行われていて」
「お母さんも、それをやらなくてはならない」
「そう。それで、母は楽屋とかにも来なくて、家に帰ったら、暗い顔をしていたので、『お母さん今日来た?』って訊いたら、『お母さん、焼いた』と言うんです。『えっ? なに?』『お母さん、あの団扇焼いた』って。破って捨てても、お父さんに見つかったらエラいことになるからと、裏の原っぱで焼いてました」
「すごいな。でも高田さんは、まだ演劇を続け」
「いや、やめる気だったんです。だから劇団活動もストップして、四年生になって就職活動を続けていたんですけど、バブルの時期だったから、良いアルバイトもたくさんあって。そのときは、広告代理店と旅行会社でアルバイトをしていたので、そのまま就職してしまえと思っていたんです」
「なるほど」
「でもそのとき、大学の先生が、『大学の研究室の非常勤副手の仕事があるんだけど、やらんか?それだったら、劇団活動も続けられるぞ』って言ってくれて、そういう道もあるのかと思って、大学に残ることになり、同時に劇団活動も続けることになり」
「両親は、学校に勤めるのは良いことだと思ったんじゃないですか?」
「でも、バイトと変わらないんです。それで、非常勤は二年半で終わりだったので、今度は手に職をつけなくてはと思って、デザイナーになろうと、デザイン事務所にバイトに行ってたんです。劇団活動を続けながら」
「劇団☆新感線がバーっとなるのは?」
「それは、わたしが三十を過ぎてからです。大学に勤めた後、デザイン事務所で働きながら芝居をやっていたときは、東京のプロデュース公演に呼んでもらったりして。そのころは演劇界も潤っていたんでしょうね。ウィークリーマンションに泊まって、出稼ぎでした。それで、アルバイトせずに、なんとなくやっていけるような感じになり。まあ実家にもいたので、貯金をしていました」