写真・浅田政志
「それにしても、虫ばかりとってた子が動いちゃいけないって大変でしたね」
「学校に戻ってからも、しばらく体育とかできなくて」
「治りましたという診断は、どういった感じで出るんですか」
「お医者さんが学校に行っていいと。なんか曖昧なんですけど。退院してからも、毎週血液検査とかありました」
「五、六年生のときも?」
「いえ四年生のときだけです。後はとくになにもなくて。なんだった? あの数カ月はって」
それでも、相当な忍耐が必要だったのかもしれません。
「中学は?」
「近所の斑鳩中学校というところへ通いました」
「部活は?」
「小学校五、六年生のときに、友達が『ガラスの仮面』の漫画を貸してくれたんです。それで、演劇部へ」
「いよいよ演劇ですね」
「でも、そんなに活動していたわけではなくて。それよりも。小学生の頃、吉本新喜劇が好きだったので、それの延長みたいな気分でした」
「発表会みたいなものは」
「あったんですけど、あまり記憶がなくて。民話みたいなものをやったのかな」
「もともと人前に出るのとか、お芝居は好きだったんですか?」
「わたしは、角川映画が好きで、『セーラー服と機関銃』とか、なんとなく、あんな風になれたらなとは思っていました。はじめて親なしで行った映画が『セーラー服と機関銃』でした。エッチなシーンとかあって、どきどきしました。小学生の妹にこれを見せていいのかと思ったりして」
「虫は?」
「とってました」
演劇をはじめた高田さんですが、理由は他にもあったそうです。
「お寺(家)を早く出たかったんです、子どもの頃はあまり思っていなかったんですけど。だったら、俳優とかになれば早く出れるかと」
「全く違うことをすればいい」
「なにか手段はないかと考えてました」
「高校は?」
「大阪の四天王寺学園という私学へ通います」
「そこでも、演劇を?」
「演劇部に入ったんですけど。そこは秋野暢子さんが出身で、演劇部でスカウトされたという伝説があって。もしかしたらというミーハーな気分で入ったんですが、えらい厳しい部活でした。わたしは、だいたいグズグズしてて、集団行動が得意ではなかったんです。でも演劇部は、決まりごとも多くて、嫌だなと、それで、なんかおかしいと思って、ちょっと意見したら、クビになりました」
「クビ、どのくらいでクビになったんですか?」
「半年もいなかったです」
「ずいぶん早い時期に意見をしちゃったんですね」
「はい。あまりにも理不尽な、と思いましたが。でも、そういうものなんでしょうね、クラブ活動って」
「そして帰宅部に?」
「そうです」
「じゃあ、町をうろついたり」
「いや、厳しい学校だったので、どこか寄るにも、立ち寄り許可書が必要で、だから、すぐ家に帰ってました」
「じゃあ、なにをしてたんでしょうか?」
「暇だったから本屋に行ったりしてました。そしてサブカルチャーの方へ」
「『宝島』とか?」
「あたしは、『びっくりハウス』が好きでした。そういうのを読んで、『へへへ』と笑ってました」
「演劇は、簡単に諦めることはできたんでしょうか」
「スパンと首を切られたので。それで、とにかく、高校生活に馴染めないまま過ごしてました。でも何かしたいと、そうしたら新聞広告で、NHKの放送劇団養成所というのを見つけて、授業料も安く、お小遣いでも通えると思って、応募したんです。それが高三の時でした」
「高校三年生だと、ギリギリの時期ですよね」
「そうですね」
「進路はそっちの方へと決意してたんですか」
「やりたい気持ちはあるんですが、自信は全然ないという。でも諦めきれず」
「放送劇団養成所では、どんなことをやっていたんですか?」
「基礎をやりました。広く浅く、でしたけど、朗読したり。でも同年代ではなく、大人と何かやれるというのが楽しかった」
「カルチャーセンターみたいな感じ?」
「そう、そういう感じでした。それで、そこの先生に、大阪芸大というのがあるというのを教わったんです。それで見学に行きまして。そこからは、なんていうか、なし崩し的に、じわじわそっちの方へと」
「ご両親は、そっちの道へ進むことをどう思っていたんですか?」
「どうせ芽は出ないと思っていたから。それまでも、ちびちびオーディションなど送ってはいたんですが、ことごとくダメでした。だから、親には、『わかってるだろ?』って言われていて」
「諦めろと」
「はい。だから、『わかってる』と答えてました。でも、芽が出ないのはわかっているけど、大学の四年間だけ、好きなことをさせてほしい、そのあとは絶対就職するからと言いまして」
親を説得し、いよいよ大阪芸術大学へ入学します。
(本項はSWITCH Vol.35 No.9に収録されたものです)
▶︎後編へつづく