SWITCH INTERVIEW ――與那城美和「遥かなる古謡への想い」 後編

写真・浅田政志


「高校生のころ、親しい友達の家に行って、何か話してて、大笑いしてたんですよ。そしたら、たまたま友達の家に音楽の先生がいて、こっちにやってきて、『いま笑ってたのは君か?』って言われたんです。だから『はい』って答えたら。『君、唄ったほうがいいよ!』って」

「笑い声で」

「そうなんです。でも、それまでは自分でも、そんなこと思ったことなかった」

「その先生に言われて、どんな気持ちになりました?」

「ちょっと、なんとなく開いた感じがしました」

「で、また唄い出した」

「はい。それ以降は、大きな声で唄えるようになったかもしれません。でも、あいかわらず人前には出なかった」

「高校を卒業してからは?」

「スーツケースと三線を持って、こっちに出て来たんです」

「上京?」

「正確には埼玉なんですけど、兄が川越にいたんです。そこに姉もいて、学校に通いながら居候してたんで、転がり込みました。兄は新婚だったんですけど、三畳くらいの部屋を姉と2人で使ってました」

「美和さんはなにをしてたんですか?」

「最初は、受かった夜間の学校があったので、通おうかどうしようか迷っていたんですけど、そこに行くのをやめて、アルバイトをはじめたんです」

「どんなアルバイトですか?」

「電子部品の素子選別っていうんですけど」

「なんですかそれは」

「サーモスタットのセンサーあるじゃないですか」

「はい」

「あれを選別するんです『ピピーッ』て選別するの」

「ピピーッ」

「姉もそのアルバイトをやっていたんで、紹介してもらったんです。でもね、いまもあんまり日本語は上手じゃないんですけど、その時は出てきたばかりだったから、ちょっと喋りづらかったというか、普通に喋ってても、意味がわからないと言われてました」

「アルバイト先の人に」

「はい、パートはおばちゃんばかりで、そういう人に、『日本語喋れないの?』とか言われてました。でも、結局そこに11年もいたんですね。あとの方は、契約社員になるんですけど」

「お兄さんのところの三畳の部屋は?」

「そこには、1年経たないくらいいました。兄に『お前らいい加減、出ろ』って言われて、姉と2人でアパートを借りました。そうだ、でも最初は、不動産屋さんが貸してくれなかったんですよ」

「どうして?」

「わたしは当時、髪の毛が短くて、姉は背が小さくて、そしたら不動産屋さんに、若い男と女が家出してきたと思われて、『ダメ、貸さないよ』って言われて。姉妹ですって説明して、ようやく貸してくれました」

「借りたのはどんなところ?」

「所沢の焼鳥屋の裏のアパートです」

「そのころ三線は?」

「弾いてました。部屋で、指で弾くくらいでしたけど。でも30年くらい前で、当時は沖縄の音楽を知ってる人があまりいなくて、『耳障りだ』とか『うるさいよ』って、直接言われたわけではなかったけれど、そんな雰囲気がありました」

「仕事の方は順調でしたか?」

「ちょっと偉くなって、電子部品を検査してました」

「どうして仕事を辞めることに?」

「やっぱり、ちゃんと弾きたい、唄いたいと思ってきたんです。それに宮古にいれば、いろんなところから唄が聞こえてきたけど。ここにいては、唄を覚えられないし、見られないし、聞こえない。さらに唄えないというのが、どんどん苦痛になってきて」

美和さんにとっては、あれほど生活にしみ込んでいて、近くにあった唄が、埼玉では遠くなってしまった。

それは、大変な苦痛だったのかもしれません。


「でも11年埼玉で頑張りましたね」

「仕事は、そんなに嫌ではなかったけど。やっぱり、わたしはここで結婚して生活するのは無理だろうなと思いました」

「唄えない以外になにか嫌なことが?」

「寒くてね」

「宮古島に比べると、そうですよね。どうにもならないけれど」

「寒い日に、自転車乗ってる主婦の方がいて、手の部分にカバーして、後ろに白菜かなんか積んでて、それ見たら、これはわたしにはできないと思ったんです。あとは人が多すぎて。今日も渋谷は大変でしたけど。どうしてこんなに人がいるんだろうって、見られたくない自分がいろんな人に囲まれている感じです。誰も見てないんだろうけど。とにかく人の流れが気持ち悪くて、所沢が限界でした。それでも多いかな」

美和さん宮古島へ戻る。

「宮古に戻ったのは10月で、戻ってからすぐ、野村流という、琉球古典音楽のところに入門しました。それと同時に踊りも習いはじめました」

「仕事は?」

「沖縄総合事務局の出先機関です。でもその前は建設会社の事務所で働いてました。そこは建設現場のプレハブ小屋で、ただの電話番みたいのだったから、もう唄い放題でした」

「仕事中に唄ってた」

「はい。電話を待ってるあいだにね。さすがに三線は持って行かなかったけど」

建築現場のプレハブ小屋で、ひとり、大きな声で唄っている美和さん。ちょっとのぞいてみたい。

「わたし、声は人一倍大きかったから、踊りながら唄えたんですね。普通、最初は踊りながらだと唄えないんです」

「人前で唄うのはどうでしたか?」

「琉球新報社の主催のコンクールがありました。古典芸能のコンクールで、それに出ることにしました」

「練習は?」

「砂浜で練習してました」

「海に向かって唄ってた?」

「はい。『伊野波節』という唄を練習してました。これは宮古のではなくて琉球の唄で」

「どんな内容の唄なんですか?」

「ガタゴト道を一人で歩く時は嫌な道、こんなガタゴトは嫌だなぁって思うけど、彼女を送っていく時は、このガタゴト道がもっと長ければいいなと思う、そんな唄ですね」

「素敵な唄ですね」

「そうなんです。後で唄いましょうか?」

「お願いします」

ニコリと笑う美和さん。本当に唄が好きなのです。


写真・浅田政志



「宮古の唄と琉球の唄は違うんですか」

「はい、まったく違いますよ。音階が違うから、大変なんです。『伊野波節』は、出だしだけでもびっくりで、大変でした。ひと声出すまでの発声とか」

「それを人前で」

「そうなんだけど、吐きそうになりながら、舞台に上がってました」

「人前が嫌だし」

「そうなんです。でも、その時思ったんです、緊張した時って、それを超えると、なんか逆に気持ち良くなるんです。終わった後の達成感といいますか。最初は、唄い出す時、口を開けたとたん、胃が飛び出るんじゃないかと思ったけど」

「じゃあ、そんなことを繰り返すうち、だんだん人前に慣れてきた?」

「そうですね。コンクールに出るようになってからです。踊ったりして、踊った後、すぐ唄ったり、駆けずりまわってました」

宮古に戻り、活き活き唄っていた美和さん。宮古島の古謡をやるきっかけが訪れます。

「三女の姉が宮古島の市史をまとめる仕事をしていて『博物館の講演会で、実演してくれる人を探してるよ』と言われたんです。わたしは、ICレコーダーを姉から借りて、自分の唄を録音して、それを聴いて勉強してたんですけど、ICレコーダーを返す時に、唄を消し忘れてそのままにしてたんです。それをたまたまうちの姉が聴いて、講演会で講演する先生に『うちの妹は民謡やってます』と言って聴かせたんですね。そうしたら、ぜひ妹さんに唄ってもらえないか、となって」

「どんどん展開していきますね」

「で、その先生から『この唄を唄ってください』とテープを渡されて、聴いたんです。でも、それを聴いた時、この唄はなんなんだと思ったんです。自分がいままで聴いてきたものとはまったく違ったので、これは本当に宮古島の唄なのかと。それで、どんどん宮古島の古謡を知ろうと思ったんです」

「なるほど」

「でも、そのような唄を知ってる人は、もう施設にいたりして」

「そのうち唄がなくなってしまう」

「はい、だから残さなくてはと。でも、先生から渡されたその音源は、ものすごく息が長くて、一緒に唄ってみたら目眩がする、笛を吹き続けているみたいな、だから『これはちょっと唄えません』と言ったんですよ」

「あれま」

「そしたら『違うんだよ』と。『宮古の唄は、あなたが聴いて、あなたが、どのようにやるかでいいの、あなたの呼吸で、無理に合わせる必要はない、自由に、でも崩しすぎずにできればいい』と言われて、それで唄えるようになったんです。そしたら、あの唄もこの唄も、となったんですね」

「それは、いつのことですか?」

「平成21年。まだCDを出す前ですね」

「CDを出すきっかけは?」

「民謡の先生が、古希の時にCDに録音するので、その時わたしはお囃子と三線を手伝ったのね」

「はい」

「その時初めて、録音する機械を見たんですよ。なんかほら、小さな人工衛星みたいなの」

「なんでしょう、それは?」

「マイクでした。変わった形の。とにかく、生まれて初めてそういうスタジオで録音したんです。でも、そのCDは先生の古希の記念で作るもので、『ああこんな感じでCDを作れるんだ』と思って、それでわたしも録音したいと思ったんです」

「なるほど」

「それにね、いろんな人に、宮古の生活の中には唄があると知ってほしいと思ったんです。あと、親が作詞した唄も残したかったし、自分の好きな唄、子供のころ覚えた唄を残したいと」

そしていよいよCD制作、「宮古島を唄う かなすあーぐ」。

これが売れました。


「レディー・ガガより売れたんです」

「え? すごいじゃないですか」

「宮古島だけで、ですけどね。レコード屋さんで、わたしのCDが、レディー・ガガの横にあって、自分の方が、ガーって売れてたんですね」

與那城美和さんは、今日もどこかで唄っていることでしょう。

宮古だったり、東京だったり。

唄はどこにでもあるけれど、本当の唄は、生活の中にこそある。

それには、芯があり、柔らかさがある。

與那城美和さんが唄うと、人間の営みの中に、寄り添っていた唄が蘇ってくるのです。



與那城美和 1966年宮古島生まれ。母の影響で幼い頃から三線を弾き始め、宮古舞踊に親しむ。現在は宮古島の民謡や古謡の世界を広げるべく活動中、琉球古典音楽野村流伝統音楽協会教師。今の思いは「ういぴとぅ んまん なりゃーまい ミャークぬアーグぅ あす°ぶすむぬ、ガズマギーぬ すたんうてぃ」(おばあになっても宮古のアーグを唄っていたい、榕樹の下で)

戌井昭人 1971年東京生まれ。作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、一六年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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