SWITCH INTERVIEW ――與那城美和「遥かなる古謡への想い」 前編

写真・浅田政志


その日、宮古島から東京は青山のレイニーデイにやってきた與那城美和さんは、まるで近所のスーパーに買いものに来たみたいにラフな感じであらわれました。

挨拶を交わしながら、わたしは與那城美和さんと初めてお会いしたのに、ずっと昔から知っているご近所さんみたいな感じになっていました。まるでスーパーで偶然会って立ち話をしているみたい。とにかく構えがなくてフラットな與那城美和さん、そこに魅力が詰まっているようです。

その後、いったん個室に入り、撮影のため、宮古上布に着替え、颯爽と登場した與那城美和さん。

「あれま!」

さきほどの與那城美和さんとはまるで違います。威厳があり、気品があり、気軽に話しかけるなんてはばかられる感じがする。「近所のスーパーに買いもの」なんていってすみません。

けれども話してみれば、威圧感はまったくありません。なんだか昔の宮古島からタイムスリップしてきたような感じなのです。ちょっと異質だけれども、安心感があり、そこに包み込まれてしまいたいような気持ちになっているのでした。
(戌井昭人・記)



「生まれたのはどこですか?」

「沖縄県、宮古島、旧平良市(ひららし)です」

「ひららし」

「タイラって読めるけど、ヒララなんです」

「名前からして、平家の落人かなにかなんでしょうか?」

「確かにそのような話はあって、狩俣というところに平家の落人がいたとか。そこは珍しくて、石垣で集落を囲っているんです。他の地域とはちょっと違う。ひいお爺さんさんが、そこの出身です」

「子供の頃は、どんなことして遊んでましたか?」

「木に登ったり、海で水遊びしたり、ゴム草履を手にはめて、砂浜を走ったり」

「手にゴム草履?」

「走って飛んで、なくならないように手にはめてたんですね。それに、みんな同じの履いてるから、そこに置いてたら誰のかわからなくなっちゃうんですよ」

「ゴム草履は重要ですものね」

「はい。裸足が好きです」

「靴下は履かない」

「いまでも履かないですね、もう暑くて駄目です」

その日も美和さんはサンダルで、まさに宮古島スタイル。

「他にはどのようなことをしてましたか?」

「留守番をしていることが多かった。わたしは8人兄妹の一番下で、上の姉は東京に行ったり、沖縄に行ったりで、親は仕事をしていたので、ひとりで人形遊びなんかをしてた内弁慶な子供でした。その頃を考えると、こんな風に人前で唄うことになるとは思ってなかったです」

「留守番の時、ひとりで唄ったりとかは?」

「唄ってました」

「どんな唄を?」

「親が唄ってたのを真似してたんです。それに、うちの近くに市民会館があって、そこで母親が踊りをやっていたので、発表会があると楽屋に行って、踊りをのぞいたりしてました。あと、袖の方で生演奏をやっていて、ひとりの人が全部唄っていて、それを見たり」

「どのくらいの演目を唄ってるの?」

「20演目くらいあって、それを全部ひとりで」

「じゃあ、それで見て唄を覚えたんですか?」

「はい。あとは母親が踊るのを見てました。家の前で、北学区婦人会の皆様が踊ってたんですよ」

「北学区婦人会?」

「そう、わたしは北小学校で、北学区。学区対抗の演芸会があると、そこの婦人会で母は踊りの指導をしてました。ラジカセ担いでね」

「それは公民館じゃなくて、家の前だった?」

「そう、家の前の道路で練習してました」

「道路?」

「はい。あと小学校の運動場とかでやってました。雨が降ったら屋根のあるところに行くけど、普段は道路です。何十人もおばさんがやってきて踊ってました。そんなのを見て育った」

「それは毎日ですか?」

「演芸会があると、毎晩のように練習してました」

「じゃあ、いつも賑やかな感じだったんですね」

「そうですね。運動会でも踊りを踊ってたから。お弁当食べて、すぐ踊ったり。そういうのに母が関わっていたので」


写真・浅田政志



「いつの間にか美和さんは踊りや音楽が身にしみ込んでいた」

「そうですね。だから習ってないのに覚えて、その後29歳で、初めて踊りを習った時も、振りは大体覚えてました。ああ、これ知ってるって」

「子供の頃も踊ってたんですか?」

「子供の頃は、踊りより、唄ってみたいなと思ってました。あと三線が家にあったので、弾いてみたいなって思ってた。それで『豊年の唄』というのを弾いてみたら、弾けたんです。でも最初は恥ずかしいから唄えなかった」

「人前では、恥ずかしい」

「お客さんが家に来た時に、やらされたりしてましたけど」

「それは幾つくらいのことですか」

「小学4年生くらいからです。自分で覚えて、少しできるんだよって思って、お酒を飲みに来たおじさんの前でやってみたり。それで『上手だね』とか言われて嬉しかった」

「『豊年の唄』ですか」

「そうです。あとは、男女のお芝居の唄があって、それは悲しい唄だった。遊郭の女性を、良いところのお坊ちゃんが好きになって、通って、でも結ばれないという唄でした。そういうのを、ああ良い唄だなって思ってました」

「ませてますね」

「だから友達には、あまり言えなかった。戦後間もなくのことですが、唄、三線をやってる人は、遊び人というか、一般の人じゃないというか」

「そういう風潮があったんですね」

「はい。水商売というか、宮古では魚屋というんですけどね。それは料亭をサカナヤーといって、歓楽街の西里(イーザト)の中にあり、そこには、もともと沖縄本島などから、舞踊、唄、三線を習得した役者さんや、遊郭からやってきた人がいたんです。でもサカナヤーでは、では、結婚式とかいろんなお祝い事もやってて」

「みんなが集まる場だったんですね」

「はい。でもね、とにかく唄をやってるというと、そういうところの人って感じになるので」

「表立っては、あまり言えなかった」

「そうですね。うちの母親も踊りをやってたから、仕事もしないで遊んでるって言われたりもしてたんですけど、お祭りがあったり、市役所の行事とかで、活躍の場が増えていくんです」

「じゃあ、小学校の音楽は隠れてやってた」

「そうですね」

「いつ頃みんなに知れるようになるんですか?」

「中学の頃にちょっとバレた」

「どうして?」

「わたしが三線をやっているのを音楽の先生が知って、合唱コンクールで、宮古島の『豊年の唄』をやることになったんです。そこでわたしが、三線で伴奏をやることになって、宮古の衣装を着てね」

「そこで皆が知ったんだ」

「そうですね」

ここで美和さんが『豊年の唄』を唄ってくれます。


  くとぅすから ぱずみゃしーよ

  みるくゆーぬ なうらば ゆうやなうれ

  よいてぃば よいだきよ

  すぅるいどぅ かぎさぬ ゆうやなうれ



「これは、どういう内容なんですか?」

「今年こそ豊作の年でありますように、そうすれば、暮らしもよくなるよって唄ですね。『みるくゆーぬ』というのが豊作の年ってことです」

「他のクラスの合唱も、宮古の唄だったんですか?」

「いや、他は普通の合唱でした。うちだけ宮古の唄だった。しかも三線での生演奏だった。でもそれで何かの賞をいただきました」

「じゃあ、そこで人前に出る自信がついたんですね」

「いやあ、でもまだあんまりバレたくはなかったです。自分がただ唄いたいだけだったから」

「なるほど」

「ちょっと褒められると恥ずかしかったりして」

「じゃあ、その後も人前では、あまり唄わなかった」

「そうですね」

「習ったりもしなかったんですか」

「習ったのは、小学5年生の頃に1回あって、父の友達で、ウダヤマおじさんって人がいて、その人から習ったんですけど、それっきりだった」

「ウダヤマおじさん」

「はい。『ウダ』ってのは『太った』っていうか『大きい』という意味で、ヤマは、そのおじさんの名前だったの」

「じゃあ『大きな体のヤマさん』って感じだ」

「そうです。そのウダヤマさんが民謡の先生で習ったんです。でも楽譜はなく一対一で教わってました。それで覚えたのが『きないわごう』っていう唄ですね。漢字だと『家庭和合』って書きます」

「家庭円満の唄ですか?」

「そうです。新しい唄なんだけど、小学5年生の頃に習ったんです。とにかく習ったのは、それが唯一で、あとは聴いて覚えました」

人前で、あまり唄わなかった美和さんでしたが、それは人に聴かせるものというよりも、生活の中にあったからで、唄は聴かせるものというよりも、生活の一部だったからなのかもしれません。


後編へつづく

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