SWITCH INTERVIEW ―― 垂見健吾「南方のタルケンさん」 〜後編〜 

写真・浅田政志


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「東京に出てきて最初に住んだ町は?」

「井の頭線の久我山」

「どんな学生生活でしたか?」

「学校には、いろんな先輩がいたから、酒ばっか飲んでたね。民家研究会ってのがあって、いちおうそこに入ったんだ」

「民家研究って、民芸運動の一環みたいなのですか」

「そうだね。でも酒ばっかだったな。ほら、研究会を作ると、学校から金が出るからさ。集まっては楽しく酒飲んでだよ。民家研究会だから、申し訳ない程度に、どこかの民家に行ったりもしてたけど、やっぱ酒だったな。それで一年があっという間に終わって」

「酒以外の授業は」

「一年のころはさ、先生が朝倉摂さんだったんだ。でもおれは、それまでデッサンなんかやったことなかったから、おれのデッサン見た朝倉摂さんに、『あんたなに描いてるの』と言われたりしてた。まあ、なにやってたんだろうね。言われるがままに、なにも作れなかった感じです。それで二年になって、夏休み終わって学校行ったら、『来なくていいよ』って言われて」

「どうして?」

「授業料を払ってないと。やっぱり、酒飲んじゃってたからね。それでも授業にもぐりこんだりしてたんだけど、とうとう辞めなくちゃならなくなって、年明けて、就職しなくちゃと思って、デザイナーになろうかと。そしたら先輩が働いてる事務所があって、そこの社長が呼んでくれたんです。そこに拾われて、二年くらいやってました。でもおれは、どうしても机の前に座ってコツコツやるのができなかった、そこで『暗室でもやったら』と言われて行ったら、そこが面白かったんだ。あとはブツ撮りの手伝いとかして、写真を覚えて、そうこうしてたら、山田脩二さんって先輩の写真家がいて、いまは淡路島で瓦焼いてんだけど」

「瓦?」

「そう、カメラマンからカワラマンになったの。その人が、運転手が必要だってことで、日本をぐるぐるまわって写真を撮りたいと、それを手伝ったり。中野の彼の住宅兼事務所に行くようになって、そこでモノクロームの現像を覚えたんです。それから、そこを出て、ひとりになって、いろいろ紹介してもらって、フリーランスになったんだ」

「いよいよカメラマン独り立ちですね」

「でも、石油ショックになっちゃったの。だからカメラじゃ食えなくて、デパートの配達を一年半くらいやって生き延びてた。そのときに同級生とかは、デザイナーを辞めたり、カメラを辞めたりしてったんだ。だから、おれも多分無理かなと思ってたとき、文藝春秋の写真部に呼んでもらって、『はい、行きます』って」

「文藝春秋の写真部では、どんなのを撮ってたんですか?」

「『週刊文春』『文藝春秋』『文学界』、なんでもやったよ。で、最後は『Sports Graphic Number』と、『くりま』っていうカラーグラビアの雑誌をやってた。そのときは、どうすれば月刊誌のグラビアを撮れるか国会図書館に行って調べて、『瀬戸内海で、こんなにタヌキがあふれてるけど、どうかね! タヌキの中行って、撮ってきましょうか』とかやってました。あと作家の方が賞をとったら写真を撮ったり、広告と作家が絡んだものとか」

「ウィスキーとかの?」

「そうです」

「あと、『Number』のとき、椎名誠さんが書いてたんだけど、一緒に取材に行ったんですよ」

「どんな取材ですか」

「プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャー」

「うわ、すごい」

「まず、馬場さんのところに挨拶をしに行って、その後、ブッチャーのところにも行ったら、後ろにもっと怖い奴がいたな」

「タイガー・ジェット・シンかな」

「そうかな。『うぉーっと』叫んだりして椅子とか投げるんだ。でね、試合のときはリングサイドでスポーツ新聞の記者に混じって撮るんだけど、ブッチャーは優しいんだ。合図してくれんだ」

「ここで撮れとか?」

「そうなんだ。目で『撮りな』って合図して、そこに投げてくるの」

「ブッチャー素敵だな」

「埼玉の巡業についていって、撮らしてもらったりもしたな。あと、そのころは『私、プロレスの味方です』の村松友視さんとか、イーデス・ハンソンさんもプロレスが好きで、プロレス観た帰りに、焼鳥屋とかに行って、一緒に飲んだな。とにかくそのころから椎名さんとのつながりができたんだ。あとは、文春にいたころのつながりとかだね」

「それから個人でバシバシと」

「うん。これなら指示されなくても、自分で撮れるなと思って、週刊誌のグラビア、アサヒとか新潮とか、どこでも行ったな。ほかには、クレジットカードの雑誌とかやってた。で、そのうちバブリーな時代になってきて」



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