SWITCH INTERVIEW ―― 高田聖子「手づかみが好きです」 ~後編~ 2page

写真・浅田政志


「親には、もう完全にバレていたんですか?」

「はい、なんだかんだ言い訳をしながらも、続けてました。それで東京に出るのは、ウィークリーマンションで過ごすのが、半年まではいかないけれど、そのくらいになっていたので、引っ越すわけではなく、『東京に部屋を持とうと思う』と親に持ちかけたんです。それでアパートを一部屋借りて、荷物を置いておくということで、家を出ました」

「場所は?」

「阿佐ヶ谷でした。でも東京に出てきたら、大阪の仕事が決まったんです。NHKの朝の連続ドラマでした」

高田さんは、大阪が舞台の「やんちゃくれ」で、主人公の姉の役につきます。わたしは、この印象が強かったので、高田さんが、パワフルな感じだと思っていたのかもしれません。

「でも、それも降って湧いたような話で、わたしはオーディションのつもりで行ったんです。どうせ受からないだろうといった気楽な感じで。そうしたら、ホワイトボードに、ドラマの家系図とかが書いてあって、わたしは変わった役で、『造船所の娘で、溶接工で、その後餃子屋になって、講談師になるんですよ』と言われて」

「すでに決まってた」

「は? といった感じでした。『わたしこれやるんですか?』って訊いたら『やりますよ』と言われて。それまで深夜のドラマに二回出たくらいだったので。まして講談師ですから。でも、『大丈夫です。いけますよって』言われて、本当かなぁと思ってましたが」

「じゃあ、いきなり、ドラマの現場だったんですね」

「はい。でも、なにもわからなかったので、わかりません、といった感じで現場に入ったら。みんな優しくして、とても楽しかったんです」

「ご両親は?」

「NHKの力なのか、喜んでました。親孝行だ、くらいのことを言われて、変わるもんだなと」

「燃やすものもない」

「燃やすものもない。いまだに、その頃の写真を、その頃死んじゃった人みたいに、実家には飾ってあります」

高校のときは、クビになってしまった演劇部ですが、演劇をやってきた人生を振り返って、高田さんは次のように語ります。

「運が良かったというか、いろんな人が拾ってくれて、やってこれました。大阪芸大のことを教えてくれた先生や、大学の先生がいなければ演劇は続けてなかったですし、劇団☆新感線に入ったのもそうです。また最初に東京で芝居をやったのも木野花さんに呼ばれて、それが演劇により深く関わるきっかけになりました。さらに、それを観ていたアール・ユー・ピーという会社にいた岩間さんという方が面白がってくれて、いつもと違うものをやらないかと声をかけてくださって、それで『月影十番勝負』というユニットができたんです。なんだか、どうしようかなと思ったときに、いつも誰かが救ってくれる感じでした」

「プロデュースをするようになって、やりたいことが増えてきた感じですか」

「いや、やれないということが増えてきたという感じです。東京に出てきてから、いろんな人に会うと、自分のやっていることが小さなことだと思えて、それで、いろんなことをできるようになりたいと思うようになりました」

高田さんは、月影十番勝負で公演した『どどめ雪』という作品で、二〇一六年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞します。

「壁にぶち当たりまくりの公演だったので、賞をもらうなんてありえないと思っていたんですけど。二十年やってきたご褒美、これまでお世話になってきた方たちを代表して、恥かきのつもりでいただきます、ということで、いただきました」

いままでに世話になった人、そして最初は反対していた、ご両親にも、ある意味、認められた高田さん。今後も、そしてさまざまなことを探求して突き進んでください。さらに野生の勘を忘れず、セミとりも頑張ってください。今年の夏は、素手でセミはとりましたでしょうか?

<プロフィール>
高田聖子

“せいこ”ではなく“しょうこ”。1967年奈良県生駒郡斑鳩町生まれ。大学時代に古田新太と出会い劇団☆新感線に入団。95年に自身が立ち上げたプロデュースユニット「月影十番勝負」、続く「月影番外地」では様々な演劇人とコラボレートするなど新たな挑戦を続けており、2016年「どどめ雪」で、第51回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞

(本項はSWITCH Vol.35 No.9に収録されたものです)


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