西川美和インタビュー『映画と小説、物語を語ること』

西川美和インタビュー

映画と小説、物語を語ること

聞き手=柴田元幸

映画も監督し小説も書く人は少なくないが、西川美和さんほどその「二足のわらじ」を(映画のわらじに力点はあるにせよ)自然にはきこなしている人も珍しいのではないか。映画と小説、というテーマだったらぜひこの人だと思い、映画にまつわる小説を書いていただいた上にインタビューもお願いした。

(西川美和ロングインタビューの試し読みページです。続きは本誌にてお楽しみください。また西川美和書き下ろし短篇小説「我が心のデルフィーヌ」は本誌に掲載しております。あわせてお楽しみください)



映画監督を初めて小説で書いた


――西川さんは映画監督であり小説家でもいらっしゃるわけですが、映画や映画監督を主題とする小説はかえって避けておられるだろうと察して、今号ではあえてそのテーマで短篇執筆をお願いし、見事な作品を書いていただきました。

西川 今日、私は柴田さんに叱られる夢を見たんです。

――どうしてですか?

西川 夢の中で、今回モンキーに書いた「我が心のデルフィーヌ」の原稿を柴田さんが急いで読んでくださって、「やろうとしていることは分かるが、あなただったら最後のところでもう少し深いところに切り込めたんじゃないの」って言われて。

――そんな偉そうなこと、言えるわけないです(笑)。思ったのは、この話、もっとコミカルにもなれるし、もっと棘のあるものにもなれるけど、その中間を行っているところが西川さんらしいのかなと。

西川 私もよく分からないままに書き上げてしまって、お分かりになったと思いますけど、本当に悩んじゃいました。

――そうなんですか。ポール・オースターが「オーギー・レンのクリスマス・ストーリー」という「ニューヨーク・タイムズ」に掲載した短篇のなかで、「ニューヨーク・タイムズ」からクリスマスの朝刊に載せる小説を頼まれて引き受けたはいいがなかなか書けない作家というのを登場させていますけど、あれだって本当にオースターがなかなか書けずに悩んだかどうかはわからない。それと同じなのかと思ったんですけど。

西川 いえいえ、私は本当に悩みました。悩んだ末に、これしかないなと思いました。

――翻訳家S氏が出てきたので、来たか、と思いました(笑)。

西川 最初は作中に書いたようなストーリーを考えていたんです。でもそれだと、たとえそこそこのものが書けたとしても、映画監督だけどお題を出された小説もお上手ですね、で終わってしまうなと思いました。これまでは映画監督を主人公にして一人称で小説を書こうと思ったことは一度もなかったんです。ご想像の通り、それは避けて通るやり方でしたから。でもこれで書けば、他の小説家の方が書かないものを書くのかもしれないと思って。

――軽薄な警官に主人公が職務質問されるあたりの会話がリアルだなあと思いました。

西川 私は以前から職業を訊かれるとすごくまごつくんです。映画監督ですと答えるのは、なんとなく口幅ったいというか、現実感がない。冠は立派だけど、今の日本では社会貢献度が低くて、市民権が得られていない感じというか。一般庶民にまで本当にポピュラーだった映画監督は、大島渚さんくらいまでだったのではないかなあと。

――今回、小説の執筆ばかりかインタビューまでお願いしたのは、そもそも小説で物語を語ることと、映画で物語を語ること、どれくらい同じことなのか、あるいは違うことなのかということを誰かに訊ねるとしたら、西川さんほどふさわしい人はいらっしゃらないと思ったからです。

西川 いやいやいや。

――たとえばイタリア料理が上手な人はちょっとやればたぶん中華料理もうまくなるような気がする。どっちも「料理」ですよね。それと同じように映画も小説も物語芸術で、「物語」を語るということでは共通ですが、それとはべつに根本的に違うことがあるのか。そのあたり、どういう風に感じていらっしゃいますか。

西川 物語を作りたいという最初の時点ではきっと変わらないと思うんです。ただ私は映画の世界で、映画のフォーマットに乗って物語を作るということをやってきました。簡単に言うと、2時間で語りきる、そして予算に収まる展開でなければいけないという、ぼんやりとしてはいるけれど制約があって、描きたいことを描かないできたという気がしています。

――映画の中では語れないことがあった、ということですか。

西川 ええ。2時間で語りきるという制約の中で、ストーリーから脱線してしまうようなエピソードや、時間軸を過去に自由に遡るということはなるべく省略しなければいけなかった。書きたいのに書けないというフラストレーションを常に抱えてきたものですから、オリジナルの映画を4本撮った後に、一度自由になって、最初に書きたいものをすべて書いて、後から映画にするという発想で取り組んだのが今回の『永い言い訳』(公開中)でした。

――なるほど。『ゆれる』などのこれまでの小説はまず映画があって、その後にノベライゼーションでしたね。

西川 これまではストーリーの軸を最初に書いて、次に脚本を作っていました。脚本はページ数で尺が計られてしまうし、本当はもっと登場人物の心の内や長い台詞を書きたいけど、三行以上の台詞は長台詞という印象を与えてしまう。長いなら長いなりの確たる理由が必要になってくるので、書きたいけど削り、同じ言葉でもなるべく短い同義語で短いセンテンスを考えるということを脚本でやってきました。

――どんな映画作りの人も、映画では語れない部分があると感じていらっしゃるのでしょうか。それとも西川さんがそういう風に感じる度合いが大きい?

西川 自分で映画のために物語を作っている人は同じようなことを感じるのではないかと思います。

――脚本・監督というタイプの方は、ということですね。

西川 はい。後から小説を書く監督もいますし、それはとても自然なことだと思います。脚本上には書かなくても、人物を書く時は、履歴書的に過去にこんなことがあったとか考えていると思うので。

――「我が心のデルフィーヌ」の中にも、30秒のコマーシャルを作る時でもどういう履歴かを考えてしまう、というところがありましたね。

西川 あの場面のように、取材をしている中である芳醇なものが出てきて、それを記録したいけれど、どうしても記録できないということは実際にありますね。時間的な制約、文字数の制約がないという意味では、小説はとても豊かだと思います。
 後々に映画にしようと思って書くものと、そうしなくていいと思って書くものとは、小説の書き方も変わってくると思うんですけど、『永い言い訳』は映画にするつもりだったので、こういうシーンを撮ろうと思って書いていた場面がありました。でも「我が心のデルフィーヌ」はしない前提で書いていたから、たとえば最後に主人公が泣いている、泣いていないというやりとりは、映画だと主人公に本当に泣いているお芝居をさせるのか、泣いていないお芝居をさせるのかを決めなければいけない。でも、文字だけだと読者に委ねられるので、その実態を明かさなくていい。それは小説のいいところだなあって思う。

――なるほど。そういえば最後の一行の「すこし勃起していた」も映画にはしづらそうですね。

西川 そうなんです。あれは言葉だからいい。映画だったら、別のエンディングの付け方をするんでしょうね。あんな一行は脚本には書かないです(笑)。



*つづきは本誌でお楽しみください



西川美和(にしかわみわ)
1974生まれ。映画監督、作家。長篇映画に『蛇イチゴ』『ゆれる』『ディア・ドクター』『夢売るふたり』がある。最新映画『永い言い訳』が全国公開中



MONKEY vol.10
特集:映画を夢みて

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