SWITCH INTERVIEW ――多田玲子「チュンチュンチュン、ジーコロコロ」 後編 2page

写真・浅田政志


チョコファッジ、漫画、バンド、バレーボール、舞台、文化祭委員、応援団、そして少女仮面。そんな高校生活をいよいよ卒業。

「美大を目指します。最初は映画学科に行きたかったけど、受験で勉強が必要なので、夢を捻じ曲げて彫刻に。ここでも親に反対されます、『彫刻じゃ食べていけない』と、でもそう言われると余計燃えて」

「そして」

「1回目は東京芸大と多摩美だけ受けて落ちて、1浪です。2年目は、芸大、多摩美、愛知県美も受けて1次は受かるけど2次で落ちる。デッサンは描けたから、先生にも『受かるよ』と毎年言われてたけど、全然受からないので、親が業を煮やして、次は学科で受けられるところにして、勉強もしなさいと言われました。絵はコンディションで変わるけど、勉強は裏切らないと」

「それまでは実技だけだったんだ」

「試験はあるけど、20点でも受かると言われてた。それで、都会の予備校に行ってたけど学科もちゃんとやる立川の美術予備校に通います。そこで一気に6年分くらい勉強しました。その頃に現代美術とかも好きになって、自分の思っていることをやるには映像科もいいけど、彫刻学科だと思った。そこで両方受けて、結果的に、多摩美の彫刻に行きます」

入学式、多田玲子さんの場合。

「彫刻科の入学試験で自分の頭を作ったんです。自刻像、それで、頭の上にカエルを乗せたんです。だからカエルで合格したと思って」

「はい、カエル」

「それで美大の入学式は、かなりヤバい奴が集まるだろうから、初日の威嚇が大事だと思って、着ぐるみを着て行こうと思ったんです。しかも顔とか出てるおちゃらけじゃなくて、真面目な着ぐるみ、それで、お向かいの裁縫の得意なおばさんに教えてもらって、発泡スチロールで型を作り、緑のフェイクファーをつけて、カエルの着ぐるみを作った」

「はい」

「親には『え? それで入学式に行くの』って言われて」

「なに、家から着てったの?」

「そう、中はジャージだったけど、それで車で大学まで送ってもらった。でも学校に着いたら、みんなスーツとか着てて、すごい普通だった。美大だからもっとお祭りみたいになってると思ってたのに」

「そんな中、自分は着ぐるみで」

「そう、だから『もう行くの嫌だ』って、そしたら母に『馬鹿、頭かぶっちゃえば誰だかわからないわよ』って言われて、『あっ、そうか』と思って」

「いよいよカエルの着ぐるみで、入学式へ」

「そしたら『カエルが来た』と人が集まって、新入生たちが『一緒に写真撮ってくださーい』って。しかも、着ぐるみを着用したら、声を出さず、ジェスチャーだけで話すという自分のルールがあったんです」

「ずっとカエルのまんま?」

「いや、それにしてもこれじゃあカエルすぎると思って、脱ぐことにしたんだけど、脱いでるところを見られるのはまずいから、陰に隠れて」

「脱いだらジャージでしょ」

「そう、ジャージに、かぶりものしてたから頭はボサボサ。そんな入学式でした」

「そしていよいよ美大生生活ですね」

「今までの抑圧で、めちゃくちゃ遊んじゃいました」

「音楽、バンドも?」

「音楽は、友達の友達が女の子のドラマー探してるというので、そこに行って、バンドを少しやってたんだけど、なんかどうも、これでいいのかなという気持ちになってきて。それで、ある時学食で悩んでたら、彫刻家の助手をやってた吉田さんという人が来て、いろいろ話して相談したんです」

「はい」

「それで『バンドをやってるけど、なんだかしっくりしなくて』と話してたら、その助手の人が『実は、おれも昔、ドラムやってたんよ。知ってるかな、ゆらゆら帝国ってバンドなんだけど』って」

「ゆらゆら帝国!」

「『もちろん知ってます!』って、吉田さんは初期のメンバーだったんだけど、バンドをやってた時に片耳が聞こえなくなってやめて、補聴器つけてたの」

「そうなんだ」

「それで、『一生できる仕事がいいから、彫刻にしたんだよ』って言われて、『わたし彫刻頑張ります!』ってなって、バンドもやめて」

「彫刻を頑張った」

「でも、なんかあんまり頑張ってないし、結局その後またバンドもやるし、おまけに片耳も聞こえなくなった」

「でも入学式以降も、多田さんと会った頃は、着ぐるみ作ってた」

「そう、着ぐるみは、生きる彫刻だと。着ぐるみを入学式で作った時からいいなと思ってたの。着ぐるみは、立ってるだけでも人が寄ってきたり、肩組んできたりする。着ぐるみ着てないとそんなことはないでしょ。あと蹴ってくる人もいる」

「人間性がうかがえる」

「そう。着ぐるみは一年に2体ぐらい作ってて、最終的に12個になって、家の倉庫が満杯になった」

「どんな着ぐるみを?」

「シンプルな動物です。あとはテポドン(北朝鮮のミサイル)が落ちるとか、落ちないとか言われてた時に、『明日死んだらどうしよう!』と思って。そんならって、ラーメン食べてミルクレープ食べてどんどん絵を描き始めた。死ぬ、と思ったら絵が描きたくなった。それが沢山になったんで、学校に持っていってみんなに見せたら、『いいじゃん』となって、『よし、自分は、この感じで行こう、着ぐるみと絵だ』と思ったんです」

着ぐるみ多田さん、いよいよ大学を卒業です。卒業式は着ぐるみを着たのかどうなのか? 訊き忘れてしまいました。

「就職はせずに、国立のロージナ茶房でバイトしてました。あとクロネコヤマトの美術品営業所っていう美術品の梱包や展示の設置をする部署でも働いてた。で、あっそうだ、急性副鼻腔炎になったんだ。顔が痛いなと思って、病院に行ったら、鼻のところが細くて膿がたまりやすいと。で、名医が曳舟にいると紹介された。そこに一週間入院すれば、5万円で、完璧に治すと。それまでも鼻が悪くて、鼻水がよく出たりしてたから、これが完璧に治るならといいかもしれないと。それで行ってみた」

「曳舟に」

「はい、そしたらおじいさん先生が出てきて、水戸泉とか加山雄三と肩組んでる写真とかあった。『僕もここで副鼻腔炎治りました』と」

「手術を受けるの?」

「そうです。部分麻酔で、どんな最新治療かと思ったら、メスとトンカチが出てきて、麻酔はされてるけど、トンカチでガンガンとやられて、『いたいでぇす、いたいでぇす』と言ってたら、先生は、『大丈夫だ』と。でも鼻の中にグーっといったら、先生が『ザッツプロブレム!』と言い出した。『え〜? なんだよぉ』だよね」

「困った」

「それで鼻の中は、どうやって縫うのかと思ったら、綿をバンバン詰められた。ひとつの鼻の穴に30個、鼻がパンパンにデカくなって、その後は、1日に5個ずつ、血で染まった真っ赤な綿を抜いて、抜くたびに熱が出るんです。それで全部抜き終わって、ようやく退院できた。最後は近所の耳鼻科に行って、鼻の中のかさぶたを取るんだけど、そのかさぶたがでかくて、焼いたベーコンみたいになって出てきました。で、わたしは、なんの話しようとしてたんだっけ?」

もう誌面が足りないので、多田さんのその後をまとめます。退院後、製紙会社のデザイン部に就職。同級生で「鉄割アルバトロスケット」の女優マークスウタコさんと組んだKiiiiiiiという2人ガールズバンドが大人気になる。音楽活動、会社員をやっていたが、両立が難しくなり、会社を辞めて、音楽事務所でアルバイト。Kiiiiiiiはアメリカツアーをしたりと大活躍。イラストも多方面からの仕事が舞い込みはじめる。私生活では結婚され、お子様も産まれ、現在京都に在住です。ものすごく強引にまとめてしまい、すみませんが、皆様も、多田さんのイラストの展覧会が、今年もどこかで行われると思うので、是非とも行って、多田さんとトークしてみてください。とても楽しいはず。今後も活躍期待してます。


多田玲子 1976年福岡県生まれ東京育ち京都在住。カラフルな色彩と珍妙なモチーフ選択で知られるイラストレーター。2人組パンクバンド「Kiiiiiii」のドラマー(ただいま休業中)。著書に「ただいま おかえりなさい」「八百八百日記」「みんなのうた絵本 うんだらか うだすぽん」(いずれも戌井昭人との共著)、自身の出版レーベル「GOLDEN BUTTER BOOKS」から漫画「ちいさいアボカド日記」「TEKITOU KANTANTAN」などがある。

戌井昭人 1971年東京生まれ。作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ――多田玲子「チュンチュンチュン、ジーコロコロ」 後編

写真・浅田政志


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「中学は、またバレー部に入ってしまいました。結局、高校3年までやっちゃうんですけど、小中高とバレーボールをやってわかったのは、自分に、バレーボールは向いてないってことだった」

「なんだそりゃ」

「8年かけてわかった。でも、大学にもバレー部があって、人が足りないからって行くようになるんですけど」

「体を動かすのは好きだった」

「動かしてる時はどうなんだろう? って思ってたんだけど、大学卒業して、運動しなくなったら、具合が悪くなった、情緒とかも不安定に」

「じゃあ動かしてる方が調子がいいんですね」

「はい」

「漫画の方は?」

「漫研があって、そこに入って4コマ漫画を描き始めました。漫研の先輩は癖のある人ばかりで、『オヌシやるな』みたいに喋る、いわゆるオタクっぽい人ばかりでした。その頃は、世の中がバンドブームで、音楽を聴いてました。っていってもその前から音楽は聴いてたな。幼稚園の頃は、ユーミンが好きで、ユーミン聴きながらスピリッツ読んでた」

「大学生みたいな幼稚園児」

「ユーミンが好きで、初コンサートもユーミン。しかも八王子市民会館」

「ユーミンは八王子で、多田さんの実家も近所」

「そうなの、だから親も、娘はユーミン方向にと思っていたみたい。さらに多摩美に行くから『同じになった』って喜んでました」

「それで中学時代は、どんな音楽を?」

「中学の頃は、ピーズ、真心ブラザーズ、カステラとか。でもフォークも好きで吉田拓郎も聴いてたな、チューリップとか甲斐バンドとか。ユーミン、五輪真弓、EPOは親が持ってたカセットでよく聴いてました」

「一方では、ニューミュージックだったんだ。でも周りの友達は、そこらへん聴いてなかったんじゃないの」

「そうです。それでバンドをやり始めます。中学から、ピーズを好きな2人がいて、その子達は、中学2年なのに、ギターもベースも上手で、あとはドラムだけだと。それでピーズもドラムやったことない人がやってるから大丈夫だと誘われて」

「ウガンダだ!」(ピーズの2代目ドラマー)

ピーズは3ピースのバンドで正確には「THEピーズ」、わたしも大好きなバンドです。ボーカルはハルさん、ギターはアビさん、ドラムはメンバーチェンジを数回。男子の情けなさや悲哀を歌うロックバンドで、ハルさんの歌詞がとくにすばらしい。などとこのままでは、ピーズの説明が長くなるので止めます。皆様、ぜひ聴いてみてください。

「それでドラムの方は?」

「教則本見ながら、タウンページを叩いてました。でも『さっぱりわかんねえぞ』と思ってた。そしたら立川のヤマハの社長の娘さんが学校にいたんです。彼女は中学2年なのに、ませててセクシーでプリンスが好きで、その子に『ドラムやりたいんだけど』って話したら、『いいよ、パパに言ってあげるよ』って感じで紹介してもらって」

「習いだすんだ」

「はい、グループレッスンで。親は、ドラムをやることに反対してて、将来のためにならないと。『でもやりたいんですけど』って言ったら、『だったら自分の貯金でやんなさい、そういうのは自腹でやったほうがいい』と言われて、いままで貯めてきたお年玉とかのお金で習いはじめます。でも五カ月くらいでお金が尽きて、貯金ゼロ。それからスタジオ入って、ライブをやったり」

「ピーズ以外には、どんな音楽を?」

「ローザ・ルクセンブルグとかもやってたな」

「じゃあ高校に入りましょう。どんな高校生活でしたか?」

「学校の近くにミスタードーナツがあって、チョコファッジシェイクというのが大好きでした。それを朝に買って、ロッカーの中に入れておいて、授業中は『トイレ行ってきます』って言って、ロッカーに顔を突っ込んで飲んでた」

「なんか中毒か、ドーピングみたいだけど、そんなにチョコファッジシェイクがお好きだったんですね」

「はい」

「趣味は?」

「趣味は増えしまって、映画観るのが好きになって、映画を撮り始めました。ショートショートのギャグみたいな映画を」

「それは、クラブ活動?」

「いや、先輩で少女仮面という3人グループがいたんです」

「少女仮面?」

「唐十郎の戯曲からとったらしいんだけど、その先輩グループが、学園祭の時に映像の作品を出してて」

「イカした先輩だったんだ」

「そう、わたしが中3の時、その人たちは高校3年だったんだけど」

「中高一貫だから繋がりがあるんですね」

「そうなの。わたしはいつも『少女仮面格好いい!』と思ってたんです。それで学園祭の時に、少女仮面のポスターを盗もうとしてたら、少女仮面の人に見つかって、『おぬし!』と言われて」

「まずいじゃないですか」

「でも、その先輩に、『おぬし、少女仮面を継ぐ気はあるのか?』と言われたんです」

「憧れの先輩直々だ」

「最初は、継ぐ? どういうことだ? って思いました。そもそも少女仮面は、アイドルとかそういうのとも違って、本当にアングラな感じだったんです。シュールでミステリアスなショートショートで」

「それで少女仮面を継いだ多田さんが、映像作品をつくりだす」

「でもわたしの代から、ミステリアス要素がなくなって、面白い感じになってしまったんだけど。とにかく、その時は、『やります!』って言って、それで高校に入って」

「少女仮面」

「はい。だから高校時代は、少女仮面の多田さんと言われてた。あとは、お芝居もやってた。演劇を」

「バンドもやってたんでしょ」

「そう、始めたことはやめないんです」

「忙しい」

「バレーボール、漫画、バンド、舞台、あと文化祭委員も」

「そして少女仮面」

「はい。その代わり、勉強がまったくできてない」

「他にもなにかやってた?」

「これ以上話しても恥ずかしいですけど、応援団もやってました。中学1年から高3まで」

「すごいな。時間の使い方はどうしてたの?」

「漫画は授業中に、バンドの練習は学校終わって、部活もやってたけど、文化祭の前に休部してました。委員会は昼と朝、映画は休み時間に撮って、夜に家で編集してた」

「忙しいクリエイターみたい」

「勉強はゼロでしたけど。授業中に漫画描いて、『トイレ行ってきます』と抜け出して、ロッカーに顔突っ込んでチョコファッジです」



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SWITCH INTERVIEW ――多田玲子「チュンチュンチュン、ジーコロコロ」 前編 2page

写真・浅田政志

「当時は、漫画を描いたりはしてたの?」

「自分とお兄ちゃんが主役の漫画を描いてました。ホチキスでガチャンガチャン留めめて、九巻くらいになりました」

「どんな漫画だったの?」

「片山まさゆきって漫画家がいるんですけど、麻雀の漫画で『ぎゅわんぶらあ自己中心派』とか『スーパーヅガン』って、その漫画も家にあって、麻雀はよくわかってなかったんだけど、その人の絵を真似て描くのが好きで、その絵をコピーして、兄とわたしを描いてました」

「漫画の題名は?」

「題名は、『アダムとイブ』ですって、恥ずかしいんですけど」

「なんか禁断の兄妹みたいな、ヤバい話なの?」

「そういうんじゃない。なんにもわかってなかったんで、お兄ちゃんとわたしなのに」

「アダムとイブにしちゃったんだ」

「はい。恥ずかしいな」

「でも9巻て、すごいね。最後はどうなるの?」

「どうなったんだろう? なんだか恥ずかしいんで、思い出そうとするのを拒否してる自分がいます」

多田さん、ジーコロコロ、小学生へ。

「小学校は私立だったんですよね」

「桐朋学園で、国立まで通ってました」

「電車?」

「混みこみで大変だった。でも国立が良い場所で、あたりを歩くのが楽しかったな」

「どんな小学校生活でしたか」

「1年2年はおとなしくて、絵を描くのが好きで、髪の毛もモサーっとしてて、運動もあまりできなくて、けん玉してました」

「けん玉」

「なんだったんだろう。あんまり周りが見えてない小学生でした。髪の毛も前髪がモサーっとしてたから」

「髪で前が見えない」

「そうなの、いつも目の前に滝が『ザー』って流れてるみたいだった」

その滝は髪の毛だったけれど、意識的な滝でもあって、それが左右にひらかれるきっかけがあったそうです。

「幼稚園もいじめがあったけど、小学2年の時には、もっとキツい、いじめがあったんです」

「どんないじめだったの?」

「学校は2クラスしかなかったんだけど、同じクラスには帰り道が同じ方向の生徒がいなかったんです。だから1人で優雅に帰ってたんだけど、ある時、他のクラスの2人に、『一緒に帰ろうよ』と声をかけられて、それで帰るようになるんです。でも、その一人がすごい意地悪な子だった。最初は、わたし以外のもう1人の子がいじめられてたみたいなんだけど、それがわたしにまわってきて」

「理由なく」

「そう、いわれのないいじめ。でもいじめていた子は、気持ちがクサクサしてたんだと思う。お金持ちの家の子だったけど、親が、ちゃんとかまってくれてなかったとか」

「どんないじめだったの」

「教科書を破かれたり、制服のボタン取られたり、駅のトイレに閉じ込められて、モップでつっかえ棒されたり」

「本格的だな、小学2年なのに」

「そうなんです。そんなのがいろいろあって、でも、ある日、ハッと気づいたんです。『こんなことされてたらダメじゃん!』って、それまでは縮こまってたんだけど、もうこれは言わなくちゃって」

「それでどうしたの?」

「暴れました。『もう、こういうのやめ!』って。その子に向かって『先生にも言う。親にも言う、警察にも言う!』って、駅で暴れたんです。そしたら、向こうも子供だから『お願いだから言わないで』って言ってきた。でも、わたしは、『絶対に言う! じゃあ、失礼します』って帰ったんです。でね、その時のいじめで、制服のボタンを取られたんだけど、『ただいま』って家に帰ったら、『あらどうしたの?』って親に言われて、隣のクラスにこういう子がいて、これこれこういうことが色々あったんだって話したら、親が『なぬっ!』ってなりまして、学校に電話して、先生が集まって、親が集まって、会議が行われ、それで解決」

「よかった」

「そこからひらいたんですね」

「滝が」

「そう。こうなってちゃダメだ、言わなくちゃダメなんだと。それに体力もつきはじめて、髪も短く切って」

「髪の毛モサーっもひらけた」

「物理的にもひらけた。それで、次のクラス替えの時も、わたしは、いじめの主犯格の子とは一緒のクラスには絶対ならないように先生が配慮してくれて。平和な生活がはじまるんです。しかも三年生になったら、同じ帰り道の子供が転校してきて、シンガポールから帰ってきた子で、その子と親友になりました」

「その子と遊びながら帰ってたの?」

「ゲームセンターとか本屋に寄りながら帰った。あと、小学生なのに喫茶店に寄ってみたいと思ってた。でも普通の喫茶店は無理だから、ドトール寄ってみようかと、それでアメリカンコーヒーを飲むとかやってたな」

「小学生が」

「背伸びして」

「クラブ活動は?」

「5年生の時、まったく向いてないのに、バレーボール部に入りました」

「漫画の方は?」

「漫画は描きたかったし、描いてたんだけど、最後まで描く足腰がなかった」

「足腰?」

「始めても4ページくらいで終わっちゃう。最後までいかない」

「漫画以外は、どんなことを?」

「同居してたおばあちゃんが『TVガイド』を買ってて、終わった『TVガイド』をくれたんです。その映画の欄のあらすじを読むのが好きでした。それを切り取ってノートに貼ってました」

「なんだか、なんでもかんでも、どんどん吸収してく時期だったんですね」

「そう。それでいつかは漫画を描きたいと思ってるんだけど。いざやってみると描ききれない。でも一枚の絵を描くのは好きでした」

多田さんは、いまでも吸収する勢いが凄い。ちなみに『TVガイド』のスクラップはまだ家にあるそうです。では中学に入りましょう。


後編へ続く


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SWITCH INTERVIEW ――多田玲子「チュンチュンチュン、ジーコロコロ」 前編

写真・浅田政志


多田玲子さんとは20年来の友達で、その間、お互い、ふんづまったり、気持ちがクサクサしていた時などは、励ましあっていました。多田さんの旦那さんで、絵描きの下平晃道さんと3人、お互いを褒め合いながら酒を飲む会などということもやっていました。3人はまだ、「自分はこんなことやっていていいのだろうか?」「これでやっていけるのだろうか?」と悩んでいました。しかし、そのような不安は、3人で話していると吹っ飛んで、「とにかくやってやるぞ」という気になれたのです。

そんなある日、多田さんに、「戌井さんは文章を書くといいよ」と言われ、さらに「そしたら、わたしが絵を描くよ」と言ってくれたのです。はっきりと覚えてないのですが、たしか酔っ払って乗ったタクシーの中で話したような気がします。どうだっけ? それから、半年くらい文章のやりとりをして、「ただいま おかえりなさい」という本を自主制作で作りました。この本は後に出版社から発売されることになるのですが、現在は絶版になってます。どなたか再版よろしくおねがいします。

多田さんとの出会いから、一緒に本を出すまでを、ものすごく簡単に説明しましたが、実は、このような説明や、わたしのことなどどうでも良いのです。

それよりも多田さんという人間、そのユニークさを皆に知ってほしいのです。まず多田さんと話していると頭の回転の早さに驚愕します。そのトークは、軽妙洒脱、含蓄があり、駄洒落があり、頓智もあり、早口言葉もあります。例えるなら、新橋で酔っ払っている駄洒落が得意なおじさんの、酔いを覚まさせ、頭の回転を七百倍にした感じです。

このように書いてると、お喋りすることが、多田さんの仕事みたいになってしまいますが、多田玲子さんはレッキとした絵描きで、イラストレーター、多方面で仕事をしています。その絵は、可愛く、毒があって、皆様もどこかで見たことがあるはず。例えるなら、新橋で酔っ払っている絵の上手いおじさんが、箸袋にチロチロ描いていた絵の900倍くらい素敵な絵を描きます。

なんだかよくわからなくなってしまいました。新橋と多田さんに親和性はありません。では、多田玲子さんのインタビューをどうぞ、場所は新橋ではなく青山です。
(戌井昭人・記)




「生まれたのは」

「生まれたのは福岡県の柳川市で、育ちは東京都の日野市、多摩川の分流、浅川の近くです」

「何歳まで柳川にいたの?」

「生まれただけ、親が柳川出身だったから」

「兄弟は?」

「お兄ちゃんがいます」

「じゃ日野市にすぐやってきて、そこでお育ちになったんですね」

「1回中野に住んで、幼稚園からは日野というより多摩川育ちです」

「遊びは、もっぱら多摩川?」

「当時、多摩川はすごい汚かったんだけど、川の中に入って、向こうの府中の方まで渡って帰ってきたりしてました。親にすごい怒られたけど」

「流されるかもしれないし、汚い」

「そうです」

「流されなかったからよかったけど、その頃の自分にまつわる事件とかありますか?」

「事件ね、うーん。脳みそが記憶を辿れないなー」

「じゃあ幼稚園に入っちゃいましょう。幼稚園はどうでしたか?」

「そうだな、いじめにあった。いわれのない理由で女の子の友達からいじめられて、こういうことがあるんだなってのを知りました」

「人間の嫌なところ?」

「はい」

「どんないじめにあったの?」

「でも考えるとそんなんでもなかったのかな。事件と言われて、いま頭のデーターベースを『チュンチュンチュン』って探ってるんだけど、『ジーコロコロ』って、遅い回線になっちゃってます」

「アクセスが悪くなってる」

「うん。なんかね、産前、産後で、記憶が、紀元前と紀元後みたいになってるの。だから産前の記憶がすごく曖昧になってるんです」

「お子さんは何歳だっけ?」

「8歳。でも思い出しますね。インタビューされると思って、いろいろ思い出しながら来たんだけど」

チュンチュンチュン、ジーコロコロ、アクセス!

「当時は、何をして遊んでた?」

「おままごととか、絵を描いてた。あとわたし、字を覚えるのが早かったんです」

「勉強してたの?」

「いや、親が漫画を与えてくれて、それで覚えたんです。幼稚園の時点で、スピリッツとか読んでました」

「おませというか、男子学生みたいだけど、他には、どんな漫画を?」

「『まことちゃん』」

「今日の服!」

多田さんが着ていたのは、白と赤のボーダでした。これは楳図かずお先生のトレードマーク。

「ありゃ! でもこれ偶然だし『まことちゃん』は、すごい好きってわけではなくて、『漂流教室』や『おろち』が好きだった。『まことちゃん』はお父さんが好きなんだ。他にお父さんは『どおくまん』が好きだった。でも『どおくまん』は読んじゃダメって言われてた。あとは、西岸良平の『三丁目の夕日』と、手塚治虫の『ブラック・ジャック』とか。お兄ちゃんも漫画が好きで『三丁目の夕日』のセリフを言い合ったりしてました。それは今でもやってるな」

「例えば、どんな風に?」

「突然は出てこないけど」

「お兄さんと喋ってると、勝手に出てきてしまう感じか」

「そうですね」




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SWITCH INTERVIEW ――大竹聡「たんたんと今日もどこかの街で」〜後編〜 2page

写真・浅田政志


「それでその後は、新宿の出版社のアルバイトに行くんです。でも、出版の世界の先輩は、インテリで、いろいろ飲みに連れてってもらったんだけど、『お前、そんなことも知らねえのか』と言われたりして、なんだかスカしてるんですよ、それがちょっと気に食わなかったりして」

「その後も、そこでアルバイトを?」

「それから求人広告のセールスのアルバイト行ったりしてました。それで、その会社が作った情報誌で、編集の勉強させてもらったり、おつかいのようなことをやってました。それが結構楽しかった」

「バブルの頃ですか?」

「バブルの前です。でも世の中の学生は、世間を舐めまくってた感じですね」

「で、いよいよ大学卒業で、就職ですね」

「そこで出版社をいくつも受けるんですけど、受からなくて、そしたら新聞広告で、思潮社の募集を見つけたんです。経験者募集ということだったんだけど、アルバイトで昼間に出版や広告で働いていたので、これを経験者としてみなしてほしいと、偉そうなこと書いて、長大な作文を社長宛に書いたら、合格しちゃったんです」

「思潮社は『現代詩手帖』?」

「そうです。でも詩と批評ですから、こりゃわかんねえぞ、と。読んでもわからなくて、7カ月で辞めました」

「あれま」

「それから、大学生の頃、お世話になってた、求人広告の会社が、だんだん大きくなっていて、自分は営業で走りまわるくらいがいいんじゃないかと思って、で、求人のセールスマンにしてもらった」

遊びで走りまわっていた大竹さん、今度は仕事で走りまわるようになります。

「お酒は?」

「まあ、上司や同僚と飲むくらいだったかな」

「そこらへんからバブル期ですか?」

「そうです。でも世間はバブルだったけど、自分は忙しかっただけで、金を儲けた記憶はないです」

「走りまわっていただけで」

「その会社に5年くらいたんだけど、小さな会社ですからね、課長とかいう役職を貰っちゃって、そしたら人を採用したり、『目標持ってください』とか言われちゃってね、上は2人で、部下9人。でも自分は、人に使われるのも、人を使うのも嫌になってしまって、こんなことやっててもちっとも面白くないと思ってね、辞めちゃうんです。まったく、ひどいですよ、いまの若者に合わせる顔がないです」

「それで会社辞めてからは」

「新宿の出版社でアルバイトしてたときの先輩が、フリーランスで、旅行ガイドの下請けなどをやってたんですよ。その先輩に酒場でバッタリ会って、会社を辞める話をしたら、仕事をまわしてくれて、そこから編集のイロハを1年弱教えてもらいました、でも自分は、フリーの編集者じゃ食えないと思った。企画も人脈も、それに素養もないんですから。そこで、ライターになるかしかないなと思ったんです。それまで飛び込みの営業をやってきたから、知らない人のところに、ピンポンって行って、話を訊くのとかも苦にならなかったんですね」

「ライターはどんな仕事をしてたんですか?」

「旅行記事とか男性誌の読み物記事、パソコン雑誌も書きました」

「なんでもですね」

「でも芸能と政治は書いたことないですけど、それ以外は」

「そこから、自分で雑誌を作るんですか?『酒とつまみ』?」

「いや、そこから、まだ10年くらいかかるんです」

ライターをやり続けていた大竹さん。しかしフリーランスの集まっていた事務所だからこその利点がありました。

「事務所は、フリーランスの人が集まっていたから、メンバーが変わったりしてたんだけど、ある時期、そのときのメンツで何かやろうとなったんです。それで考えてみたら、デザイナーもいるし、カメラマンもいるし、ライターもいるから、これならミニコミを作れるぞとなったんです。それで最初に、中島らもさんがインタビューを受けてくれて」

「『酒とつまみ』だ!」

「そうです。創刊号が届いたときは、嬉しくて、今度は売りに行こうってっなって」

「営業ですね」

「飲み屋とかまわって、読んでくれた人に、『面白い』と言われたら、また嬉しくなってね」

「そこで大竹さんも、自分の好きなことを書くように」

「そうなんだけど、今までは、注文を受けて書いてたでしょ、でも、何もないところから書くということに、最初は緊張したな。それで『面白い』と言われると、これまた嬉しくて」

その後、好評の「酒とつまみ」は号を重ねていきます。

「でも、どんどん貧乏になるんですよ」

このようにおっしゃる大竹さんですが「酒とつまみ」を読んで、大竹聡さんというユニークな人間がいると知った人は多いはずです。

最後に書くことの魅力を語ってくれました。


「単行本のための書き下ろしもあるけど、雑誌に発表できるというのは、他の記事に自分の記事が挟み込まれるという醍醐味があるんです。そこで他の人と比べられるのが楽しい。それと、雑誌は寝転がって、酒を飲んだりしながら読むでしょ、そこで読んだ人が、頭に一箇所でも入るところがあればいいんです。後で、アレなんだっけ?とか、面白かったけど思い出せないな、というくらいでいい。そんな記事を書ければいいなと思ってます」

紆余曲折ありながら、純粋に書くという行為を楽しみ、そして飲むという行為を楽しんでいる大竹さん。「エロ本、ギター、野球のグローブ」から「雑誌、酒、ペン」になったのかもしれません。

ちなみに『多摩川飲み下り』の後に出版された、『こだま酒場紀行』も最高です。この本は、新幹線こだまの停車駅を一つ一つ降りて、酒場に繰り出すといったものです。

今日もどこかの街で、酒を飲んでいる大竹さんを想像すると、こちらも酒を飲みたくなるのでした。



大竹聡 1963年東京生まれ。早稲田大学卒業後、出版社、広告代理店、編集プロダクションなどを経てフリーライターに。2002年仲間と共にミニコミ誌「酒とつまみ」を創刊。主な著書に『中央線で行く東京横断ホッピーマラソン』『酒呑まれ』『下町酒場ぶらりぶらり』『ぜんぜん酔ってません』『レモンサワー』『多摩川飲み下り』『こだま酒場紀行』がある

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ――大竹聡「たんたんと今日もどこかの街で」〜後編〜

写真・浅田政志


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「高校は?」

「国立高校というところに通って」

「国立高校っていったら名門ですよね」

「でも自由な学校でね、オートバイで通学できるし、私服だし、朝は出席をとらない。だから、朝一の授業は行っても行かなくてもよかった。それに雨になると来ない先生とかいたな」

「大竹さんは、電車で通ってたんですか?」

「そう、三鷹から電車に乗って」

「部活は?」

「サッカー部に入りました」

「じゃあ、サッカー、ギター、エロ本ですね」

「エロ本は、当時、そうだな、昼は銀紙で見えなくて、夜になると表紙が見える自動販売機で売ってたやつ、アリス出版のを、なけなしの小遣いで買いに行ってたくらいかな。結構エグい内容だった」

「サッカーの方は?」

「真面目にやろうと思ったんだけど、高校から始めても、あまり上手くならないんですよ。やっぱ中学からやってた奴等にはかなわない。ちょっとナメてたんですね」

「勉強は」

「勉強はね、中学までは、一番良い高校に入れる成績があったけれど、入ってみたら、みんなそういう奴なんです。よく頑張る、真面目な子が集まってる学校でした。でも、のんびりしてて、先生も一切干渉してこないから、授業も自分で決めてとって良かったから、大学生みたいな高校生だったな」

「じゃあ空いた時間に、趣味の活動を」

「そうですね」

「趣味はなにを?」

「麻雀くらいかな」

「雀荘通いですか?」

「してましたね。国立は、一橋大学とかあったから、雀荘は賑わってました」

「酒の方は?」

「酒はね、『飲みにいこうぜ』といった感じの豪快な奴はいなかったけど」

「じゃあ、まだ酒には手を出してなかった」

「僕は、家でね、ジンとライムを買ってきて『海流のなかの島々』だ、ヘミングウェイだとかなんとかいって、こーんなでっかいグラスに作って、2杯飲んだら倒れちゃった。そこで、ダメだアメリカ人にはなれない、あんなマッチョな文学は読んでもダメだって思ったな」

「じゃあ、まだ本を読んで酒に憧れる感じだった」

「そんな感じですね、小説家の外れっぷりみたいなのに憧れてたんですよ。父がいなくなったという家庭環境もあって、自分は特別だと思いたかったのもあったんでしょう」

「高校卒業後は?」

「浪人をするんだけど、5月くらいで予備校に行くのをやめてしまって、武蔵境のジャンボってパチンコ屋にずっといました」

「勉強はしてない」

「家の近くに兄貴が部屋を借りてて、兄貴がそこを出たんで、そのまま僕が使ってたんだけど、パチンコに行って、戻ってきたら、酒を飲んで、小説読んで」

「ずいぶんな予備校生ですね」

「そうなんだね。それで受かったのが、早稲田の第二文学部だった」

「第二文学部だと夜に学校ですか?」

「そうです。でも行ったり行かなかったり」

「サークル活動とかは」

「やらなかった。最初は、役者をやりたいと思ってたんです。それで二文を選んだんです」

「昼間は動けると」

「はい。大学の劇団を観るんだけど、俺には合わないと思って、それで夢の遊民社を観に行ったら、これは面白いと思って、オーディションの書類を取り寄せたんです。そうしたら、一次試験で、レオタードを持ってくるように書いてあって、試験にダンスがあったんですね。で、こりゃダメだと思って」

「裏方とかをやる気もなかった?」

「はい、大道具とかをやって芝居に打ち込みたいという気持ちはなかったんです。そのくらいいい加減な奴だったんだな。で、まあいいやと、そこでまた麻雀をやったりしてました」

「あれま」

「でも1人でいることを持て余すようになって、ノイローゼみたいになっちゃったんです。そこで、安定剤を飲んでウイスキーをガブ飲みしてっていうのが、始まりかな」

「アルコールの人生」

「突入ですね」

「それは大学2年くらいですか?」

「そうです。それまでも、ビールを飲んだり、ヘミングウェイの真似して飲んだりしてましたけど、でも、もう飲まずにいられないみたくなっちゃったんです」

「半分アル中みたいな」

「ウィスキーをギュっと入れると、ホッとするんすよ。でも体質的には、まだ酒に強くないから、2杯飲めばもう、がっつり眠れちゃうんです。でも3時間くらいで、ビッと起きちゃたりして」

「それで、また飲んじゃう」

「はい。でも、これはダメだと思って。身体を動かす仕事をしようと思いました。そこは二部だったから良かった。朝から工場行って働いてました。そうしたら、たちまち治りました」

「なんの工場で働いてたんですか?」

「印刷です。そこで、荷物運びをやったり」

現在もお酒を飲む大竹さんでしたが、そこで立ち直らずにいたことを考えると、なんだか恐ろしい。



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SWITCH INTERVIEW ――大竹聡「たんたんと今日もどこかの街で」〜前編〜 2page

写真・浅田政志

「年齢は関係なく遊んでた?」

「そうです。公団住宅は、日本全国から入植してきてた感じで、いずれ家を建てて出ていこうという人ばかりだったので、九州も、東北も、各地の出身者がいて、いま思い返すと、遊びの名前の呼び方とかも違ってた。とにかく、なんの縛りもなく、ただただ遊んでた。でもよく怪我してましたね」

「どんな怪我を?」

「公園で先輩にブチかましされて、頭を打って、気絶したことがあります」

「うわ、それは何歳ぐらいのとき?」

「幼稚園ですね。今から考えたら大問題ですよ。それで、兄貴たちに担ぎ込まれて、水ぶっかけられて、近所のお医者さんに見てもらったんだけど、『じきに元気になるだろう』って言われたな。そうだ、目が覚めたときゲロ吐いたらしんだけど、結構危ないですよね」

「危ないですよ」

「とにかく頭が血まみれというのは、子供の頃は、2回くらいあるんじゃないかな」

「遊びまわりすぎというか」

「そうなんだ。どこにでも行っちゃうし、無謀なことやって、それで、ぶつかれば血が出ますよね」

「まあ、そうですけど」

「でも昔の医者って、『我慢できるか?』って訊いてきて、『はい』って答えると、麻酔もせずに、ブスブス縫ってくるんです。それで『お前我慢強いな』と言われて、『うっす』とか言って、格好つけちゃってね」

「野蛮ですね」

「三鷹とかって、そういう土地だった。言葉も、ちょっとした多摩弁があって、江戸っ子とは全く違いますよ」

わたしの祖父も深大寺の近くの農家出身で、言葉が変でした。「コーヒー」は「コーシー」、「やっちまいな」というのは「やっぢまいな」、「いっぢまいな」といった感じで言葉に濁音が入って濁るのです。ちょっと汚い感じの訛りです。

「じゃあ大竹さんは、そのような野蛮な土地で遊びまわって、すくすくお育ちになった」

「まあ、基本そのままだったんですけど。僕が12歳で兄貴が15歳のときに、親父が出奔いたしまして、仕事で失敗したというのが直接の原因にはなっているんですけど」

「あれま」

「親父はそれまで、野球チームの監督とか、人を集めて麻雀やったり、祭りをやったり、酒盛りしたり、賑やかな人だったんで、地域では有名だったんですよ。それが急にいなくなったもんだから、みんな噂するわけですよ。『女ができた』とか『奥さんに男ができた』とか、『あそこは、兄ちゃんは真面目だけど、弟の聡(さとし)は悪ガキだから、コレから見ててごらん、おもいっきりグレるから』なんて言われてたんです」

「団地の村社会」

「そうです。それは、僕が中学に入ったときぐらいだったんですけど、みんながチラチラこっちを見て噂するんです、それが面倒臭くて」

「そうですよね」

「そこでね、そうなると男ですから、いかに体育祭で活躍できるかとか、勉強できるかというところで勝負になりますよね」

「はい」

「あとは部活をしっかりやって、そうするといじめの対象にはならない。でも僕は、もともとガキ大将だったので、悪くなるぞって言われていた他の子供たちとは付き合わないようにしたりして」

父が出奔したことにより、みんなの噂するような人間にはならないように、心がけていた大竹さん。子供ながらに大変だったのかもしれません。そこで、普段は、どのように生活していたのでしょうか?

「家では勉強もしてなかった。恥ずかしいけど、エロ本を見るか、ギターを弾くかでしたね。まあ、それで6時間は持ちました」

「エロ本、ギターで6時間。部活は?」

「野球をやってました」

「どこを守ってたんですか」

「セカンドでした」

「野球は真面目にやっていたんですか」

「やってましたね。僕は結構上手かったんですよ」

「じゃあ、野球、エロ本、ギターですね」

「そう、グローブとエロ本とギターがあれば、小学生のときのような友達がいなくたって知ったこっちゃないって感じでした」

「酒は」

「訊かれるだろうなと思ったけど、酒は、まだ飲んでない」

「酒はまだですね」

「はい。ごくごく普通の中学生でした」

「遊び場は近所」

「そうですね。都心に行っても落ち着かない。当時好きだった女の子と、渋谷に映画を観に行ったんですけど、落ち着かないしお腹は痛くなる。だから映画を観終わったら、真っ直ぐ吉祥寺に戻って、お茶を飲んだな」

大竹さん、やはり武蔵野育ちなのか、都心に出て人が多いと目がまわってしまうそうです。


後編へ続く


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SWITCH INTERVIEW ――大竹聡「たんたんと今日もどこかの街で」〜前編〜

写真・浅田政志


「酒とつまみ」という大竹さんの作っている雑誌を手にしたのは、7年くらい前のことでした。とんでもなく面白くて、くまなく読んだのを覚えています。そして酒が飲みたくなるのでした。

それから、大竹さんの書いた本を読むようになりました。とくに『多摩川飲み下り』は名著で、大竹さんが多摩川を上流から下流に向かって歩きながら、酒を飲むというもので、こんな風にして生きてる人間がいるのだから、世の中は、まだまだ捨てたものじゃないと思ったのでした。そしてお酒が飲みたくなるのでした。

そんなこんなで、『多摩川飲み下り』が面白いと雑誌に書いたら、大竹さんがそれを読んでくれて、一緒にお酒を飲むことになりました。

いったい、どんな呑兵衛が来るのかと思ったら、実物の大竹さんは、物腰柔らかで、とても話しやすく、さらに見た目は、とても健康そうで、肌ツヤもとてもよろしいのです。わたしは、もっとグダグダな人がやってくるのかと思っていました。さらに、たんたんと酒を飲むその姿が、ものすごく格好良かったのです。

また、大竹さんが育った場所と、わたしの育った場所が、近所だったということもあり、なんだか、勝手に親近感もわいてきて、あーだこうだ、酒に対して、うんちくを言うわけでもなく、とにかく酒を愛しているその姿を眺めていると、これまた酒が飲みたくなるのでした。

酒とは切っても切れない大竹さんですが、いったい、どのようにして、現在の大竹さんが形成されていったのか、詰まっているのは酒ばかりではない、そんな部分をお訊きしたいと思いました。でも、やはり酒なのか?(戌井昭人・記)



「生まれた場所は?」

「武蔵境の駅前にある武蔵野赤十字病院で生まれて、三鷹の新川の団地で育ちました」

「どんな子供時代でしたか?」

「僕らのころは、団地がボコボコできて、お寺とか教会にも幼稚園はあったんですが、それでも足りなかった。そこで、私立の明星台幼稚園に通います。明星は、小田急のバスが特別に団地と幼稚園を行き来してたんです。団地から大量に子供が通ってました」

「どんな幼稚園児でしたか?」

「無着成恭さんの教えなのか、とにかく走りまわって、文字も習わず。それで毎日、井の頭公園の、いまジブリのあるあたりまで歩いて行って、そこで弁当を食べて、また歩いて園へ帰り、解散なんです。だから小学校入ってもたしか、文字読めなかった」

「小学校は明星学園へ?」

「いいえ、公立です。三鷹第一小学校。そのまま明星学園にあがれるのは、あのへんのボンだから」

「どんなことをして遊んでましたか?」

「団地近くの雑木林で遊んでました。あとは近くに仙川が流れてたんだけど、護岸工事がされてなくてね。遊んでたら、落ちて流れる子供とかいたな、それをみんなで助けて」

「大竹さんも流れた?」

「僕は、それを見て笑ってた」

「どんな小学生でしたか?」

「あの頃は、勉強しろとか言われることもなくて、元気に走り回ってるのが最優先でした。雪なんか降ったら、もう授業はなくて」

「休みになるんですか?」

「いや、2時間ぶっ続けで雪合戦しててくださいとか」

「やっぱ、都心とは少し離れてるからでしょうか」

「大人たちも、ちゃんと教育してやろうなんて考えてなかったんじゃないかな」

わたしも大竹さんの生まれた場所の近くで育ったのですが、そこは東京だけれども、明らかに都会の子供とは違った感じで育ったような気もします。

「大竹さんは、子供の頃から本が好きだったんでしょうか?」

「まわりには本を読む、そういう子供もいたんだろうけど、僕のまわりは、日が暮れるまで外で遊んで、飯食って、気づいたら寝ているような感じで、犬みたいな育ち方をしてました」

「とにかく遊ぶ」

「そうですね。雪が凄い降ったとき、生徒みんなでカマクラを作ったな、1年生から6年生まで、みんなで遊んでたんですね。で、先輩が雪の中に埋まって中の空洞を作ってくれて、網で焼いた餅食べさせてくれたり」



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SWITCH INTERVIEW ――池田晶紀「ニーコニッコニッコニコ」 〜後編〜 2page

写真・浅田政志


「人間には短所と長所があって、ぼくは長所を伸ばそうと思ったんです」

「子供の頃から、写真は近い存在ですもんね」

「はい。一方で、通信簿によると僕の短所は、落ち着きがない、うるさい、ってところなんですけど、その短所を職業に活かすなら、これも写真家だと思ったんです。落ち着きがなく、うるさい。だからこれも伸ばしていこうと。それで、友達に『俺のいいところ教えて』って訊いてまわるんです。そこで自分を構築して、周りからこう思われてるんだなとか、いろいろ考えて、やっぱり自分には写真が向いているんだと思ったんですね」

「なるほど」

「今まで写真というと、女性のグラビアだったり、あとは写真をちょっと齧った人が撮るような、ちょっと暗い感じで馬とかを撮ったりする文学的な写真が流行っていたんだけど、自分はそういうものが嫌いで、とにかく周りにある環境で写真を撮っていこうと。それで、もっとポップな写真を撮ろうと思ったんです。そうしたら『美術手帖』から話が来て、これから自分の好きなことで仕事ができるぞ、人に愛されるような仕事ができるぞと。とにかく環境は恵まれていたから、それを受け入れようと」

「そこからコンスタントに仕事が来たんですか?」

「デザイナーになった友達にCDジャケットの写真を撮ってくれと頼まれたり。あと3年間予備校にいたから、周りの奴がもう仕事を始めていて、そこから仕事が来たり」

「じゃあ写真家でやっていく決意が固まった」

「『俺は今日から写真家だ』という日があったんです。当時は広告ブームで、デザインが面白い時期でもあって。自分が写真に憧れたのはアートの方だったから、あまり興味はなかったんですけど、でもアートとデザインとを行き来しながらやっていこうと思って、それでレコード会社のビクターエンタテインメントに行って、『今日から僕はカメラマンになりましたので、サザンのジャケットをやらせてほしいんです』と売り込みに行ったんです」

「いきなり、サザンで」

「はい。それで、『ポートフォリオを見てください』と。それが初めての売り込みで、売り込みをしたのはそれだけでしたけど」

「で、初めての売り込みは、どうなりましたか」

「ポートフォリオを見てくれた人が『あなたの写真なら、もうちょっと女性を撮った方がいいですよ』とかアドバイスをくれたり、『なんだったら、このファイルはここに置いておくから』と言ってくれて。それでサザンじゃないけど、別の仕事をもらったりして」

「順調ですね」

「いえ。仕事はあったりなかったり。でもそんなに辛い感じではなかったな」

「じゃあアルバイトとかしてたんですか?」

「ジーンズメイトでバイトしていました。それで、僕は裾上げが上手いんですよ。裾上げチャンピオンって大会があって、優勝してましたね」

「凄いじゃないですか」

「当時、そういうことは、後で思い出として話せると思っていたんです。今こうやって話しているみたいに。そんな気持ちでアルバイトをしてました。あとは、恋人と自転車で2ケツして雨の学校に行ったりとか。そういうのも、いつか思い出になるぞと思ってやってたところもあるんです」

「人生が思い出づくり」

「そうです。思い出遊びです」

いまこうして写真家になった池田さんですが、写真館を営んでいるお父さんの思い出は、どんな感じなのでしょうか?

「お父さんは、ふざけたおじさんなんです。子供を笑わせるんです」

「写真館で」

「そうです。写真館で子供を撮るときとか、いつも『ニーコニッコニッコニコ』って、めちゃめちゃダミ声で言うんです」

池田さん、お父さんの『ニーコニッコニッコニコ』を真似してくれましたが、これは歌のようにもなっています。

「それで、アンパンマンをカメラに乗せてわざと落としたり、風船を飛ばしたりして、それを拾いにいくときに、子供が笑うんです。その瞬間に撮るんです。あと靴が脱げて、笑わせるとかね。でも父親はその時カメラのところにいないから、母親がシャッターを押したりして」

「ニーコニッコニッコニコ」

「そうです。僕にとって、『ニーコニッコニッコニコ』は長い間呪いのようになっていました。でもね、僕も、父の靴が脱げるみたいに、帽子を落としたりできるようになって、その帽子が落ちるときに、シャッターを押すんですね。だから、父は、ただふざけてるだけだと思っていたんですけど、これは技術なんだなと。それを受け継いでいたんですね」


ふざけているみたいだけれど、変化球で、どこか確信をついてくる池田さん。

今後も、いろいろと観察、吸収をして、楽しめる作品を作り、そして楽しい池田さん自身でいてください。

なんてったって、「みんなが楽しんでいるのが楽しい」という池田さん自身が相当楽しいのです。

池田さんがいれば、まわりの人たちが、「ニーコニッコニッコニコ」になっていくはずです。そして世の中が「ニーコニッコニッコニコ」になっていけば素晴らしいと思うのでした。




池田晶紀 写真家。ゆかい代表、水草プロレイアウター、シェアリングネイチャー指導員、かみふらの親善大使、FSC(フィンランドサウナクラブ)会員、サウナ・スパ健康アドバイザー。5月7日(月)まで池田晶紀展『模様』がアーツ千代田 3331 1F COPAINS de 3331/CHAMP DIVIN 3331内で開催中

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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池田晶紀展『模様』がアーツ千代田 3331 1F COPAINS de 3331/CHAMP DIVIN 3331内で5月7日(月)まで開催中。詳細はこちら

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SWITCH INTERVIEW ――池田晶紀「ニーコニッコニッコニコ」 〜後編〜

写真・浅田政志


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「他には、どんなことをやってたんですか?」

「小学校生の頃から高校生までずっとやってたのは、クラス全員の家に行って夕飯を食べるということです」

「なんですかそれ?」

「友達の家というのは文化が違って、それを見るのが面白かったんです。プールがあるものすごい金持ちの家があったり、働かないお父さんがいる家があったり」

「凄い格差ですね」

「働かないお父さんは、ずっとタバコ吸ってて、畳の上の同じ場所で揉み消してるんですよ。だからソコが穴になってて。友達の妹は、その穴に向かってゴルフをやってたんです。だから社会を知るのは、友達の家に行くのが一番だと。それで高校生の頃も、友達の家に行ってました。カードゲームばっかやってる奴とか、プルトップばかり集めてる奴とか、武器ばっか作っている奴とか」

「その人たちの写真を撮ったりはしてないの?」

「写真は撮ってないけど、友達の0点のテストとか、手紙とか貰ってましたね」

「友達のテストまで」

「0点なんて、そうそう取れるもんじゃない。でもひとまとめで言うと、結局それは思い出なんですよ。友達の描いた落書きとかも、いまだに持ってます」

「そのような活動をしていた高校時代ですが、将来のことは考えてたの?」

「兄が美大に行っていたんです。それを見ていたら自由でいいな、好きなことをしてられるんだなと。それで自分もアートだ、美大だと。実家が写真館だから写真学科かな、とか思いながら。予備校に通って、一人暮らしを始めるんです。そうしたら、そこにスーパー自由があって」

「予備校はどこにあったんですか?」

「立川の予備校です。それで、むちゃくちゃ面白い奴がいたり、さらに一人暮らしだから、スーパー自由で、まったく勉強しないで、自由を楽しみはじめたんです。そこで自分自身と向き合うことになって。それまでは流れに振りまわされてばかりだったけど、そこで自分の作品を作ったんです」

「どんな作品を」

「サザン、さだまさし、自分、という作品です。さだまさしのマネをして写真館で写真を撮って、さらに桑田佳祐のマネをする。つまり僕のアイデンティィはここですよということを作品に。そんなモノを作って、とりあえず清算しようと思ったんですね。そんなこんなで、全然勉強せずに予備校に3年間いたんです」

「3年間予備校に」

「そう。あまりにも居心地が良かったから3年もいたけど、結局、芸大に受からず。それで、専門学校に行くんです。創形美術学校に」

「でも、学校に入る前からもう活動していたんですよね」

「そうなんですよ。1999年に浪人生活をやめたんですけど、そのときアニメ、文章、建築デザイン、映画といった、自分とは違うことをやってる仲間を集めて、グループで、アトリエを作ったんです。共同ギャラリーですね」

「場所は、どこに?」

「国立です。後で考えると、オルタナティブスペースなんですけど。当時は、多目的ホールみたいな感じでした。トークする場がほしくて、毎日集まって、『今週の無駄遣い』とかをテーマに話し合ってました」

「今週の無駄遣いとは?」

「一人一人が、自分の無駄遣いを話すんです。そうすると、俺にとって無駄なものが、その人には無駄じゃないとか、そういうのが出てくる。それで、だんだん情報が増えて」

「池田さんは、人が興味あるものに興味があったりするんですね」

「そうなんです。友達の好きなものを知っていくのが面白かった。それで、展覧会をやったり、フリーペーパーを作ったりしてました。で、そのようなグループでできるチームプレイは、サザンオールスターズなんです。一方、個人でやる人生の教科書は、さだまさしなんですね。その二つが同時進行で進んでいくんです」

「そんな感じで、どのように写真へつながっていくのでしょうか?」

「造形屋さんでアルバイトをしていて、FRP(繊維強化プラスチック)の作品をやってたんですね。粘土が得意だったから。気がついたら、すぐにチーフになってたりして、いろいろなアーティストから受注を受けて作ってたんです。同世代の友人はアーティストの下についてやってたりしてて大変そうだったけど、ぼくは受注されている側だったんですね」

「そうか、ちょっと違いますね」

「それで、いろいろなアーティストを手伝っていたら格好いいなと思って。当時は絵描きになりたかったんです。一方で、写真も撮ってたんですよ、アーティストの作品とかポートレイトを。で、写真館の息子で、子供の頃から写真はやってるので、『写真上手いね』って言われても、『当たり前だよ』と思ってたんだけど。とにかく、いろいろなアーティストと交流するようになったんです」

「その写真を撮っていた」

「みんな、僕が写真ができると知っているので。そのときに、いろいろな人と会って、おしゃべりして、だんだん吸収していって。それらをカテゴリーに分けていくことができたんです」

「整理ができるようになった」

「そうなんです。20代前半までは情報収集ばかりだったんですけど。それで写真のことは、『近すぎて気づかないんだ』とか人に言われたり、褒めてもらったりして」

ここで写真家への決意が固まっていくのでしょうか?



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SWITCH INTERVIEW ――池田晶紀「ニーコニッコニッコニコ」 〜前編〜 2page

写真・浅田政志

そんな池田さんですが、普段の生活はどうだったのか?

「80年代はアイドル全盛期で、テレビに齧りついてました。日本中がそうでしたよね。それで90年代。平成に変わるときに中学生で、バブルが弾けて、友達が学校からいなくなっちゃった」

「いなくなった?」

「はい、あれは夜逃げですよね」

「忽然と消えた」

「そうです。そんなときに、お兄ちゃんはフリッパーズギターとか聴いてましたね。あとは、『あすなろ白書』と『夜のヒットスタジオ』。だからもう、塾なんて行けません。忙しかったなぁ。同世代はアニメだけど、ぼくはお兄ちゃんの方を向いているんですね」

「話が飛んだついでに中学校にいきましょう」

「中学は、女子が敵ではなくなって、仲良くなったりしちゃって、これが凄いなって思ったりしてました。それで僕は、小学校六年の時に生徒会長をやっていて、林間学校にお父さんが来てたんですよ」

ひとまず小学校に戻ります。

「写真を撮りに来ていたんですか?」

「そうなんです、なんならお兄ちゃんも来ちゃって」

「お兄ちゃんはなんで?」

「手伝いで。だから学校中の人たちが、俺の父ちゃんを知ってて、カメラのカメちゃんって呼ばれてました。そんなこんなで、卒業アルバムは俺だらけなんです。それで味をしめたのが、自分が前に出てウケるということなんです。それで生徒会長にまでなって。そんな小学生でした。なんというか、普段は恥ずかしいのに、モノマネしたりすれば大丈夫だと」

「生徒会長とか何かの役割を与えられたりすれば」

「はい。もう多重人格系になっていたんですね。それでモノマネで形になったのが、さだまさしです。学校の帰り道、友達に、さだまさしのトークのマネをして、延々見てもらってました」

「さだまさしのトークはラジオから?」

「『セイ!ヤング』ですよ。そこでトークを」

「中学時代に戻ると、中学時代もさだまさし?」

「はい。トークと、箒をギターにして。テープに録音して、友達に配ったりしてました。特にさだまさしのトークは言葉遣いが面白くて、中学生では、ちょっと知らない言葉とか出てくるんですよ。そんなのがまた刺激的で、それをマネして、好きな女の子にテープをあげてました」

「部活は?」

「サッカー部です。がっつりやってました」

「ポジションは?」

「ゴールキーパーなので、これも、またトークなんですよ、『右行け』『左だ』とか指示出して、相手がシュートを打ちそうになると、『ウンコ落ちてるよ!』とか『お母さん来てるよ!』とか言うんです。そうするとビビるんですよ」

トーク全開の池田さん。自分のルーツ、好きなものを振り返ると。

「全部『さ』なんですよ、サッカー、サザン、さだまさし」

「本当だ」

「だから、カラオケ行っても『さ行』しか見てないですから、それでいまはサウナだし」

「S(エス)でもありますね」

「もうSSSですよ」

喋る。スピークもS。

「とにかく、人を笑わせるのが好きで、先生のマネ、友達のマネなんかをしてました。友達で、ずっと顔を掻いている奴のマネなんかをしたりすると、彼がそれに気づいて、恥ずかしくなって、その変な癖が直ったりするんですよ。で、『池田くんのおかげで直ったよ』なんて言われたりして」

「役に立ってるんですね」

「そうなんです」

「その頃のドラマは?」

「『北の国から』です。がっつりハマってしまいました。で、田中邦衛のモノマネですね」

「多重人格に拍車が」

「そう。自分でもモノマネばかりして、もう誰だかわらずに、ずっとエラーが続いている感じですよ。一方で、流行りは無難にやってきたつもりだけど、根は変わらないんです」

「高校時代は?」

「男子校ですが、これは無しでもいいです」

「でもエスの部分、さ行の部分はブレず」

「スケートボードもやったな」

「サ行だ」

「あとはダンスですね」

「さ行ではないけど、ダンスは好きだったの?」

「小学生の頃、マイケルジャクソンがセンセーショナルでした。あと荻野目慶子。とにかくダンスが好きでした。『スリラー』の変な動きとか。それで風見しんごが出てきて『ブレイクダンス』とか言って、これがブレイクダンスっていうのか、となって」

「踊りだす」

「だから、ダンスは、面白いものという気持ちでやってたんです。でも、その後、ストリートみたいな時代になって、さらにロサンゼルスの方からヒップホップがガンガンやってきて、だんだんオシャレになって、それでやめました」

「面白いのが、格好いいになっちゃったんですね」

「そうです。それでね、今度はモノマネのオーディション番組に出たりしてました。素人モノマネ。そのとき、自分の順番の前が森進一のモノマネで、後ろが美川憲一のモノマネだったんですけど、似せるために整形してるんですよ。でも、俺にはそんな覚悟はねえって」

「池田さんは、どんなモノマネだったんですか?」

「50くらいリストを持っていったんですけど、織田無道とか、モルツのビールの栓を抜く音とか。でも相手は整形してるんですもん。ここで挫折しました。俺にモノマネの覚悟はない、整形までできないと、と。自分は、本当は赤面症で、今まではそれを隠すため、防御するために、いろいろな人間になってたんですけど、その人のまんまになっちゃうのはどうなんだと。それで挫折。高校一年生のときです」


後編へ続く


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SWITCH INTERVIEW ――池田晶紀「ニーコニッコニッコニコ」 〜前編〜

写真・浅田政志


なんだか面白い人がいるという噂を、そこかしこで聞いていました。その人が池田晶紀さんでした。

本業は写真家だけれど、桑田佳祐だったり、さだまさしだったり、サウナだったり、釣りだったり。他にもいろいろ噂を聞いていたので、いったいどんな人なのか、そして、いつか会ってみたいと思っていました。

出会いは突然でした。去年、下田昌克さんの恐竜展のオープニングを観に沖縄に行ったのですが、そのとき池田さんと会ったのです。

スイッチ編集長、新井さんに「池田さん」と紹介されて、「ああ、この人が、あの池田さんか」と、そして、池田さんもわたしのことを知ってくれていたようで、二人で「ああぁ」となったのでした。

その後、肉を食べ、酒を飲みました。池田さん、とにかく、おしゃべりが最高に面白い。スイッチが入ったら、あっちに行って、こっちに行って、ぐるぐるまわっていきます。

はじまったら、止まらない、半分暴走気味だけど、完成度がやたらと高いおしゃべりを、思う存分堪能させていただきました。そしてたくさん笑わせていただきました。

翌日、池田さんは、クーラーボックスを持ち、釣り船に乗りに行きました。いつだってどこだって、趣味が人生、人生が趣味、そんな印象を受けた池田さんのインタビュー、というかおしゃべりを、みな様もご堪能くださいませ。
(戌井昭人・記)


「お生まれは」

「たぶん母の子宮だったようです」

「どんなところでした?」

「最初は真っ暗で、そこにわずかな光が見えてきたんです。それで、来たなーって思って、そこから出たのが最初です」

「出てきた場所は?」

「神奈川県横浜市金沢区ってところです。いまでいうと八景島シーパラダイスがあって、釣りがメジャーなところです。『釣りバカ日誌』のロケでも八景島の太田屋さんってところから船が出てます」

「でもって、産まれて1年経つと1歳になりますよね」

「そうなんです。1歳になって、2年経つと2歳」

「3年経つと3歳で、そこらへんから記憶があるのではないかと」

「ええ。でも、全くないですね」

「あらら」

「3月生まれなんですけど、3月生まれって、他の子よりちょっと成長が遅いんです。それで幼稚園の卒園式でみんな悲しくて泣いているんですけど、なんで泣いているのかわからなかった。3月生まれだからよくわかっていなくて。そんなんで幼稚園はほとんど覚えてないんです」

「じゃあ、その卒園式くらいからですか」

「はい。でも、その前の写真が残ってるので。当時を確認するのは、親が撮った写真だったんです。だから親目線の自己確認なんですね。父は写真館をやっていて、母が化粧品屋、メイクをしていました。それで、僕が子供の頃に初めてカメラを持って撮った写真を、『最初の一枚だ』なんつって飾ってくれたりしてね。思い出が大好きな家族なんですよ。もう写真だらけで、子供の頃の僕は写ることのプロでもあったんですね」

「自分の記憶というか、思い出が形になってる方が大きい」

「そうです。それは父親が写真を撮るという仕事をしていたのが大きいですね。意識してない自分を知れるという最初のツールになったのが写真です」

「なるほど」

「あれ、ちょっと写真家っぽい話になっちゃってるな、これはまずい。まずいですね」

そんなにはまずくないと思います。貴方は写真家なのです。

「じゃあ、いろいろ体験した自分の記憶になっていくのは、小学一年生くらいからですか」

「そうですね。でも、小学一年生の頃も、三月生まれなので周りよりも何か遅れているというのは絶好調で。だから先生に付けられたあだ名が『赤ちゃん』でした」

「赤ちゃん?愛くるしかったからかな」

「いえ。単純に可哀想な子だったんです。落ち着きがなくて、多動で、ぼーっとしてるといった、典型的な感じで。だから先生の席の近くに座らせられたりして、後ろの方の子が羨ましかったです。なんか自由じゃないですか、あの人たち」

「そうですね、出席番号だと渡辺とか後ろの方が、大人っぽかった気もします」

「うん。そういう時代ありますね」

「で、赤ちゃんは、どんな感じだったんですか」

「2年生で覚悟したんです」

「覚悟?」

「勉強を捨てたんです。それで笑いの方に向かったんです。給食の時間に面白いことを言って、牛乳飲んでるみんなを吹かせようとか。そういう風に笑いにシフトしたんです。ただ自分のルーツを考えてみると、ずーっと一貫してやっていることがあって、それは友達ですね」

「友達づきあい?」

「はい。それで一番、影響を受けたのは、8歳上の兄です」

「だいぶ離れてますね」

「だから、もう宇宙人ですよ。レコードで洋楽を聴いていたり、カセットのラベルとか作っていたりするのも格好良くて。それで兄に影響されて、80年代ドラマと歌謡曲を好きになります。でもって、その中でも一番影響受けたのは、サザンオールスターズとさだまさしなんです。ドラマの方は『池中玄太80キロ』です。あれは僕の父親だと思って見てましたから」

「カメラマンだ」

「そう。お父さんが出てるって感じで見てました」

「それは全部、小学校低学年頃ですか?」

「そうです」

「さだまさしも?」

「そう、ものすごく早熟なんですね、だから、同年代と話が合わないんですよ。ただ、10個上の先輩とは話が合ったりして」

「あだ名は赤ちゃんだけど、中身は赤ちゃんじゃない」

「そうなんです。小学生が『精霊流し』歌ってるんですもん。だからちょっと変わっていたかなとは思うんですけど」

「赤ちゃんは、友達とも遊んでたんですよね」

「はい、流行りのものが大好きでしたから。ファミコンは町内で2番目くらいに家にやってきました」

「それじゃあ、友達が池田さんの家に遊びにきたのでは?」

「そうです。うちは写真館と化粧品屋で、従業員さんもいたので、18時にケーキとかおやつが出るんですね。だから友達は、そのケーキを食べにも来てました。でも自分はケーキが嫌いで、友達がケーキを食べてるの見ながら、タクアン食べてました」

「タクアン?」

「そう、とにかく、そうやって友達が楽しんでるのを見てるのが好きだったんです」

「運動は?」

「みんなサッカーとかやっていて、僕もサッカーです。よく人と違うことをやりたいって人がいるじゃないですか。でも僕は、人がやってることをやりたくて、みんながサッカーやってたらサッカーだし、みんなが塾に行ったら、塾に行くといった感じです。自分の主張というのが特になくて、おもちゃも、お兄ちゃんが選んで『マサノリはこれだよね』って言われたら、『うん』といった感じで、自己主張が、まるでなかったんですね」


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SWITCH INTERVIEW ――大谷幸生「花で笑顔を飾る」 〜後編〜 2page

写真・浅田政志


「『ここでもみんな花をつけて、フラを踊ってるの?』って聞いたら、作り方がわからないからプラスチックの花をつけてるということでした」

「そうだったんですね」

「フラワーアレンジメントの仕事って、こういうものはどうですかと提案するのが仕事だけど、雑誌とかで紹介されているのは、豪華な花に、豪華な器だったりで、実際には、そういうことをやっている人は少ない。それよりもお花を楽しむ人を増やしたいと思ったんです」

「なるほど」

「でも、お金もないから、そのカフェで働きながら、レイを勉強しようと思ったんですけど、最初は、どうやって習ったらいいのわからず、教室もないから、それで洋書なんだけど本を買って、それを見ながら、見よう見まねで作ったりしていました。あとは、お客さんに見せて、『ハワイで見たのはこんなのだった?』って意見を聞いたりしていました。それで、最初は、フラを踊ってる人たちに配ったりしていたけど、それからハワイに行ったんです。そこで先生に会って、正統派のハワイ仕込みのレイを学んだら、一目置かれるぞなんて、いやらしい考えもあったんです」

「行ってみてどうでした?」

「ハワイの先生に、『日本の花を使いなさい』と言われたんです。そこにあるものを使うことに意味があると。でも、その場にあるものを使うなんて、その時代では、ちゃんちゃらおかしいことだったんです。日本でその場にある花を使っても、『これはレイじゃないよね』とかいう空気になって」

「そうなんですね」

「それでも、それをやらなくちゃと思いました。日本に来ているハワイの人たちは、それでいいと言ってくれるんですけど、日本の人たちは考えが固くて」

「でも作り続けた」

「はい。そのうちに、自分の中で軌道に乗って、身になってきたなと思って、それを先生に見せてあげたいと」

「何という先生なんですか?」

「マリー・マクドナルドさんです。今年91歳で」

「教わろうと思ったきっかけは」

「彼女の本も持っていたんですが、『クウネル』という雑誌で、彼女の作ったレイが紹介されていて、それには紫陽花に南天が入ってたんですよ。そんなの普通考えられないことだったんですけど、もしかしたら、この人に会ったら、何かヒントがあるかもと思ったんです」

「すぐに会えたんですか」

「最初は、全く繋がらなくて、彼女は学者で気難しいから受け入れないって、言われたりしていたんです。それで、農水省の人が、市場の輸出入の商談みたいなのでハワイに行った時、自腹でついていったんです。で、せっかくハワイに来たのに、毎日ミーティングで可哀想だからと、『どこか行きたいところある?』って訊かれた時に、『この人に会いたい』って言って。本を持っていたから、それを見せて。そうしたら、向こうの偉い人が彼女を知っていて、すぐ連絡してあげると、それで心構えもなく会うことになって」

「凄い展開ですね。会ってみてどうでしたか?」

「彼女は、花を摘んで待っていてくれて、『何が知りたいの?』と言われて、『あなたが教えてくれることがあればなんでも知りたいです』と言ったら、『時間がないから早くやりましょう』と、このやり方、そのやり方、ってどんどんいろんな作り方を見せてくれました。残った花は持って帰って、それでまた作りなさいと」

「得たものは大きかった」

「神様みたいな人だと思っていたので、実感もなく、ふわふわしてました」

「その後も、葉山で活動を?」

「そうです。フラワーアレンジメントを教えたり、カフェで働いたり、それでハワイに行って、一週間くらい滞在して、彼女に教えてもらって帰ってくるというのを繰り返していました。それで五反田に教室を構えたんですけど、そこから葉山まで通ってたら、いつも車で眠くて、横浜に引っ越しました」

マリー・マクドナルドさんにレイを習った大谷さんですが、そこにはお金の介在が一切なかったそうです。そしてそれが、『笑顔の花飾り』という本を作ることにつながっていきます。

「日本の花を使って、こんな素晴らしい知識を与えてもらったけど、そこには、お金の介在が全くなかったので、どのくらい払えばいいのかと思ったんです。でも幾らか訊くのも失礼だし。とにかく、ここまでの感謝をどうしたらいいか教えてほしいと訊きました。そうしたら、『ここに訪ねて来ているだけでいい。レイを作れるようになって、みんなが喜んでくれなら、それでいい』と言われました。そうしたら、そんなことを考えた自分が陳腐に思えてきたんです。その時日本の花をひとつでも多く彼女に見せよう、その植物のあるところで写真に収めようと、それで、四十七都道府県を回ろうと思って始めたんです」

「どのくらいかかりましたか?」

「2年半で回りました」

「本は、先生に届けることはできたんですか?」

「はい」

「喜んでいましたか」

「はい。でも、おばあちゃんだから、感情の起伏が穏やかで、娘さんの方がボロボロ泣いてました。それに、彼女は学者なので、娘さんが『この花はあれだね』とか言うと、『そんなのわかってるよ』と言っていました」

本を作る時大谷さんは、マリー・マクドナルドさんに、英語のセンテンスと学名を入れなさいと言われていて、それを守りました。

そして、マリー・マクドナルドさんに本を見せると、「この先、農家が無くなってしまったとしても、この本を見れば、その子供達が、自分の土地を知ることができるね。よくやった」と言われたそうです。

インタビューの後、わたしは、大谷さんからレイを頂きました。首にかけてみると、嬉しくて、なんだかわけもわからず、ニコニコしてしまいました。凄いなレイの力は、と思った次第です。

帰り際。大谷さんに「花は枯れるものだから」と言われたものの、捨てるのがもったいなくて、いまだ、わたしの部屋にぶら下がっています。



大谷幸生 1969年神奈川県生まれ。レイ作りの巨匠マリー・マクドナルドに師事し、日本の土地に育つ花とハワイに伝わる様々な手法を巧みに駆使したオリジナルのレイを編むレイメイカーとして、 また雑誌や広告の花などを手がけるフラワーアーティストとして活動中

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ――大谷幸生「花で笑顔を飾る」 〜後編〜

写真・浅田政志


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「お弁当屋さんを辞めた後は?」

「お客さんで、ガソリンスタンドにも来ていて、お弁当屋さんにも来てた、運送会社の人のところで働きます。そこは稼ぎも良かった。軽トラックに荷物を積んで配達するんです。でも僕は、その頃スキンヘッドで、当時はオウム真理教の事件もあったので、ドアを開けてくれない人もいました」

「ドアの前に、箱を持ったスキンヘッドが」

「そうなんです」

「ちょっと怖いですね」

「でも、その会社は、社長が色々なことに手を出して、最終的には、給料がもらえなくなって辞めます」

「その後は?」

「そこでやっとお花屋です。花を買いに行っていたお花屋さんが、うちにおいでと言ってくれて、そこで半年働きます。で、いろいろな花屋を見てまわって、『僕は花屋になりたいんです』と言っていました。3年間修行して花屋になるとかではなく、キャラ先行でやっていけるのではないかと思っていたんです。そこでお金を貯めるために、求人広告で一番高いバイトを探して、高速道路を清掃する会社で働き始めます」

「どのくらい働いたんですか?」

「1年くらいです。毎月のように救急車で運ばれる人がいるような劣悪な環境の仕事でした。宇宙服みたいな服を着せられて、鉄の粉が出るホースを持って、それを吹き付けて、サビを落とすんです。その後、鉛をスプレーするんです。この時マスクをしていても、鉛が詰まって息苦しくなるので、最後は、マスクを取っちゃうんですけど、体に良くない。あとは、歯車に指を挟まれた人とか、鉄の粉が顔に入った人とかいて、それで、そろそろ僕の順番が来るんじゃないかと」

「救急車が」

「はい、で、そろそろ辞めようかと。百万円ちょっと貯めたので、物件を探して、26歳の時に店を開きます」

「場所は?」

「横須賀です。それで、月10万円のところを借りたんですけど、保証金というものを知らなくて、全部払ったら3万円しか残らなかった。でも、初日に、12,000円だけ花を仕入れに行ったんです」

「いよいよ開業ですね」

「地元に、おばあちゃんがやっている小さな花屋があって、そのおばあちゃんに、僕が想像する花屋のことを語ってたんです。看板はこうだとかとか、こういう内装だとか、でも、そんなこと全然できてないのに、お店は借りちゃった。そうしたら、おばあちゃんがバケツを五個くれたんです。『水とバケツがあればできるから』って」

「なるほど」

「でも僕としては、こんなバケツ嫌だなと思いつつ、とにかく店に並べたんです」

「結果は?」

「3,000円しか売れませんでした。看板も置いてなかったので、『ここ何屋?』って言われて、ダンボールに花屋って書いて、拾ってきた椅子を置いて」

「なんとか形にした」

「でも、9,000円赤字で、今日開店したけど、明日閉店かと思ったりしてました。それでも、とにかく椅子に座って、眠くなってしまったので花の入っていた箱の中で寝ていたら、お客さんが来たりして、そこから出て、まるで棺桶から出るみたいに」

「仕事の方はどうなりました?」

「雑誌で母の日特集の記事があって、それを切り抜いて、さも自分が出ているみたいに店に貼って、『母の日の注文承ります』と書いたら、仕事がきて、前金で貰って、なんとか1回目の家賃は払えました。でも、最初の1年は車で寝ていました」

「そうなんですか。お客さんは?」

「夜中の12時までやっていたんですが、そうすると風呂屋帰りのおじいちゃんが寄ってくれたり、酔っ払ったおじいちゃんがやって来たり。でもなんとか1年経って、次は、普通の一軒家を借りて、ドアを開けて入らないと何屋さんかわからないような場所にしました。それからは、自分がやりたいことだけをやろうと、ちょっと生意気になって、でも、だんだん客が来なくなって、そこは二年で止めます。それから僕は、アーティストになりたいんだと思って、アーティストは山の中に暮らして、そこで草花を積み、創作をするものだと、勝手に思って」

なんだか単純でありますが、この単純さと、すぐに動くというのが大谷さんの力でもあり、魅力であるように思います。

「それでどこに住むんですか」

「あんま山でもないけど、葉山に引っ越しました。そこでレッスンをしたり、お花の雑誌の仕事をしたり、化粧品の会報誌でお花をやったり、ヨーロッパのデザイナーが日本にくる時のお花の手伝いとかをしていました」

「じゃあ、売るより、作る方になったんですね」

「そうなんです」

「だんだん形になってきた」

「で、『湘南スタイル』とかが取材に来たんですけど、なんか錯覚してしまっていました。スカスカなんですよ。でも、どんどんやりたいことを突き進めていったら、またお金がなくなってきちゃって。その頃、葉山の奥様方が開いているサロンがあって、そこに年に何回か教えに行っていたんですけど、そこの方に、『あなた良いものを持っているけど、遊ばないから誰にも知られないのよ』って言われたんです。『うちの子供なんて、夜遊びで人脈作ってるから、飲みに行きなさい』って。でも、僕お酒飲めないんですって答えたら、『じゃあ、カフェに行けばいいじゃない』って言われて」

「そして外へ」

「でもその頃、家から出るのが嫌いだったんです。だから、カフェってどういう風に楽しむのかわからなくて、カフェの作法が」

「さてどうしましょう」

「それで、地元にハワイアンカフェがあったので、そこに行ってみたんです。ハワイなら自分も好きだから、いいかと思って、さらに、その日はお店がごった返していて、なんとか紛れ込むことができました」

「どうでしたか?」

「そこが楽しくて、通い始めるようになって、『お花やってるんです』と言ったら『ハワイにもあるんだよ』『花をつけて踊るんだよ』と教えてもらって」

ここで、大谷さんの現在の活動に近づいてきます。



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SWITCH INTERVIEW ――大谷幸生「花で笑顔を飾る」 〜前編〜 2page

写真・浅田政志

「高校時代は、どんな感じですか?」

「近所の新設二年目の高校に入学して、自転車で通ってました」

「部活は?」

「新設校だったので、ほとんど部活がなくて、当然ブラスバンドもありませんでした」

「困りましたね」

「どうすんの、って感じで、ぷらぷらしてたんですが、当時はバンドブームで、先輩たちがやっている同好会があったので、そこに行ったんですけど、サックスを持って行っても何の役にも立たなくて。そんなこんなで、楽器を買うために、ガソリンスタンドでアルバイトを始めます」

「なに石油ですか?」

「コスモ石油です」

「自分も、高校生の頃に、コスモ石油でアルバイトしてました」

「僕は高校時代、学校よりガソリンスタンドにいた方が多いんじゃないかってくらいアルバイトをしてました。そのガソリンスタンドは家と学校の途中にあったので、学校に行く途中、店長から『今日は人が少ないからやっていかない?』って呼び止められて、学校休んでアルバイトしてました」

良い環境なのか悪い環境なのか、でもお金が溜まりそうです。

「高校時代は、バイトを一生懸命やって、バンドの練習をしてました」

「バンドの練習するスタジオは、どこに?」

「横須賀です」

「ライブをやったり?」

「ライブは横浜でやってました。今はドンキホーテになってしまったけど」

「『バンドホテル』だ」

「そうです」

「楽器はなにを担当?」

「ベースです」

「どんな感じの音楽だったんですか」

「最初はコピーバンドだったけど、18歳くらいから、女の子が歌うバンドを始めて、オーディションに応募したりしていました。髪の毛を立ててもしょうがないから、真面目にやろうといって。髪の毛を立てても審査員の点数は上がらない、と」

「結果は?」

「端っこの賞をもらったりもしました。でも僕は20歳でやめたんです。それで残ったメンバーは、デビューしたんですよ」

「凄い」

「はい、僕も凄いなって思ったけど、1年で契約が切れて、解散しちゃいました」

「大谷さんはその頃なにをやっていたんですか?」

「ガソリンスタンドの正社員になっていたんです」

「えっ、アルバイトから」

「はい。ミュージシャンになりたかったのはあったけど、まあ、真面目にやっていこうと。それでガソリンスタンドに就職です」

「じゃあ、整備士の免許も取得して?」

「はい。23歳の頃、新しいガソリンスタンドができるので、そこの店長になるってことになったんです。そのためには、整備士の資格を持ってなくてはいけないということで、研修に通わせてもらって」

「それで店長に?」

「なりました。でもオープンして3カ月で辞めてしまったんです。だから、それまでは羽振りが良かったんですけど、極貧の生活になっていきます。公共料金を払ってなくて、電気も止まって」

「辞めるきっかけはなんだったんですか?」

「ガソリンスタンドで働いてた頃、満タンにするとハンコを押すというのがあって」

「ポイントカードみたいなものだ」

「はい。それで、ハンコがたまると、ティッシュとか食パンを配ってたんです。そうしたら、ちょっと乗っただけで、ガソリンを満タンに入れにくる人がいて、それも夫婦で交互で来るんです。でも、そんな風にハンコをもらうために来る人とかは、なんか嫌だなと思って、ティッシュやパンじゃなくて、花をプレゼントしようと思ったんです」

「なるほど」

「で、いつも花屋さんにオーダーしにいってたんですけど、その花屋では、おじさんがタバコをくわえながら、ほいほいほいと花束を作って渡すと、お客さんが『ありがとうございます』と喜んでいるんです。それで『はい四千円』と。お金をもらって、『ありがとう』と言われて、自分が好きなように花束を作っていて、これは凄いと思ったんです。さらに、その花束を誰かにプレゼントしたら、貰った人が喜んで、さらに、それを持って帰ると家の人が喜ぶ、その喜ぶのを見ている方も嬉しい。とにかく、これは凄いぞと思って、ガソリンなんて入れている場合ではないと」

「でも店長ですよね、簡単には辞められない」

「そうなんです。だから最初は、誰か友達に花屋をやらせて、そこを手伝おうかと思ったんです。でも僕らの世代で、横須賀で、その当時だと、みんなパチンコやったりしていて、誰も花屋なんてやってくれない。それで、『すいません、花屋やりたいから辞めさせてください』と」

「すんなり辞められたの?」

「いえ『お前に幾らかかってると思ってるんだ』と言われました」

「研修とか行ってるし、資格も取らせて貰ってるし」

「そうなんです。だから、退職金もいらないのでで辞めますと」

「幾つのときですか」

「23歳くらいです」

「それで花屋に?」

「いえ、辞めた次の日も『それで花屋ってどうやってなるんだろう』といった状態でした。で、みるみるお金が無くなっていきまして、このままじゃヤバい、家賃も払えないと。そこで、近所のお弁当屋で働くようになります」

「花屋の夢を持ったまま、お弁当屋さんで」

「はい、とにかくお金が無いので、いまどうにかしなくてはと。それでお弁当屋の仕事を夕方までやって、その後は夜中の12時までホテルの掃除のバイトをしていました」

まだ花の仕事をしていなかったけれど、当時の大谷さんは、花についてどのようなことを考えていたのでしょうか?

「花は粘土だと思ってました。いろいろあるものを組み合わせれば大丈夫だと思っていたんです。いま考えるとちゃんちゃらおかしいんですけどね」

「お弁当屋さんはどのくらい働いていたんですか?」

「店長に、『大谷くん、新しいお店を出そうと思うんだけど、店長どうかね』と言われて」

「スタンドの頃のようですね」

「それで、これはまずいと思って」

「でも大谷さんは、いい働き手だったんですね」

「汚いメニューを書き換えたり、いろいろやってたんですよ。それで、人が喜ぶのが嬉しかったので」

人が喜ぶ、そして笑顔になる。どんな仕事をしていても、これが大谷さんの原点かもしれません。

後編へ続く

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SWITCH INTERVIEW ――大谷幸生「花で笑顔を飾る」 〜前編〜

写真・浅田政志


花が近くにあると人は笑顔になるのだなと思った。

大谷さんの作品は、飛行機の機内誌で何度か拝見したことがありました。各地に行った大谷さんが、その土地の花を使ってレイ(花の輪)を作り、そこに住んでいる人に作ったレイをかけてもらい、写真におさめるのです。ちなみに写真担当は浅田政志さんです。とにかく、写真に写った人々は、みんな笑顔で、こっちも幸せになってしまうのでした。

インタビュー当日、レイニーデイに現れた大谷さんの笑顔も素晴らしかった。その笑顔は、すぐに距離を縮めてくれました。

「花を楽しむっていうのは、きれいに飾って遠くから眺めるよりも、ぐっと近づいて香りをかいだり、さわってみたり、からだ全部を使うことだと思っています」と大谷さんは言っています。

なんだか花も人間も同じなのではないかと思えてきました。

インタビューの後、スイッチで働く女性、スイッチガールズの方々が、大谷さんの作ったレイを首にかけて。写真を撮ってもらっていました。

やはり大谷さんの花をかけられると、みんな笑顔になります。

このように、人を自然と笑顔にしてしまうものは、そのレイを作る大谷さん本人からも発せられているようで、とにかく、笑顔製造機のような大谷さんのあれや、これやを訊いてみました。
(戌井昭人・記)


「お生まれは?」

「神奈川県の横須賀です」

「どんな子供でしたか?」

「外で遊ぶのが嫌いで、もう股ずれをしちゃうほど、おデブちゃんだったんです。だからスポーツとかも嫌いで」

「現在の姿からは、想像できませんけど」

「いまは、僕の人生で一番運動をしてるので」

「何の運動をしてるんですか?」

「ジムに行ってます。ジムワークです」

「では、子供のころは、どんなことをしてたんですか?」

「粘土です」

「粘土?」

「油粘土が好きでした。紙粘土は高いし、作ったら終わりなので、特別な時にしか使えなかったんだけど」

「それをずっとこねてた」

「はい、僕の家は自営業で、お母さんはカーテンを縫ったりして、父は、そのカーテンを付けに行っていたんです」

「内装屋さん?」

「はい、他にも壁紙とかカーペットとか。だから父親は、あんまり家にいませんでした。そのかわり家には、パートさんがいて、母と一緒にカーテンを縫っていました。それで幼稚園から帰ってきたら、そこで粘土で遊んでいるか、カレンダーの裏に絵を描いてました。月が替わって、カレンダーをもらえるのが嬉しかった。でも妹は、そこに、ばーっと大きく絵を描いてたけど、僕は端から小さく描いてました。そういう暗い子供でした」

「粘土では何を作ってたんですか?」

「小さいお寿司をたくさん作って、それを並べて、一人で『いらっしゃい』とか言って、お客さんと板前の役をやってました」

想像するとおかしいけれど、やはり少し暗い子供だったのでしょうか。けれども、お寿司というのが、なんだか、センスが光るような気もします。

「小学校もそんな感じだったんですか?」

「絵を描くのが好きでした。それで授業中、先生に『ここ読みなさい』とか指されたら、耳が真っ赤になっちゃうような子供でした。そんなおデブちゃんでした」

「いつぐらいまで、太ってたんですか?」

「中学くらいまでかな、髪型は今と変わらないけれど」

「じゃあずっと家にこもっていた感じなのかな」

「でも、みんなと遊ぶ時は、山にカブトムシを捕りに行ったりもしてました」

家にこもってばかりではなかった大谷さん、当時、なにか印象的な出来事はなかったのか訊いてみると結構衝撃的な事件が。

「地元で羽振りのいい整形外科の娘さんと同じクラスになったんです。なんで言い合いになったのか忘れちゃったんですけど、その子に、『悔しかったらオチンチン出してみなさいよ!』って言われて、出したんです。そうしたら先生に言いつけられて、今度は先生に『なんで、オチンチンなんて出すの』って怒られて、その子が出せって言ったから出したって答えたら、『あなたは、わたしが死ねって言ったら死ぬの?』って詰め寄られたりしたことがありました」

たぶん大谷さんは、とても素直な子供だったのでしょう。

小学校の頃は、給食と絵を描くのが楽しかったという大谷さん。


「学校で、友達と会ったり話したりするのは好きだったけど、遊ぶのは一人がよかったんです。地元のソフトボールのチームに入ったりもしたけど、ボールが取れないんですもん」

「油粘土ですか」

「いつも爪の中に粘土が入ってました」

「そのころは、粘土で何を作ってたんですか?」

「恐竜とか、あと栗饅頭を作りました」

「栗饅頭?」

「父親が交通事故で入院していた時、隣のベットの人が栗饅頭が好きだというので、その人に栗饅頭を作ってあげたんです。粘土にニスを塗ったりして」

「本物っぽく見せようと」

「はい、それで、そのおじさんにあげたら、食べそうになってました」

やはり子供の頃から手先が器用だったようです。でも、恥ずかしがり屋の大谷さん、小学校三年の時に、少し吹っ切れた出来事があったそうです。

「三年生の時に佐藤くんという友達がいて、彼が七夕の時に短冊に、『ビフテキが食べたい』って書いていたんです。で、それを見て、『ああ、こんなもんでいいんだ』と思ったら、いろいろ気持ちが楽になったんです」

「それで気持ちが開いて」

「そうもじもじしなくなった気がします」

少し生き易くなった小学生の大谷さん。中学時代はどんな感じだったのでしょう。

「ブラスバンド部に入っていました」

「どうしてブラスバンド部を選んだんですか?」

「母親の希望だったのか、やらせてみたいと思っていたみたいで。あと近所の人がテナーサックスをやめて、楽器はあるから、それを使えばいいって」

「部活は真面目にやってたんですか?」

「あまり真面目ではなかったな。練習はそんな好きじゃなかった。でも、まあ普通にやってました」

「勉強の方は?」

「中学二年くらいまではなんとかやってたんですけど、それから勉強しなくなって、受験前は、ヤバい、となって一生懸命やりましたけど、本当に勉強は嫌だったなぁ。僕は、勉強する前に、頭を掻いててフケが出たりすると、どこまで出るのかと、ずっと頭を掻いてるような感じでした」

わたしも同じような経験がありました。

「そのころの体格はどうだったんですか?」

「中学二年の頃好きな女の子ができて、このままではいけないと思って、ご飯のおかわりと、チューチューするアイスを食べるのをやめることにして」

「チューチューするアイスは、そんなに食べてたんですか?」

「あればあるだけ食べてたんじゃないかな」

「キリがない」

「はい」

「それで結果は?痩せました?」

「少しずつだけど」

「恋の方は?」

「手を繋いで学校から帰るくらい」

「おー、凄いですね」

「でもね、手を繋いだ時に、変な形で繋いでしまって、この形を変えたいと思いつつも、なにも言えなかったり。そのくらいです」


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SWITCH INTERVIEW ――冨永昌敬「ダイナマイト心中」 〜後編〜 2page

写真・浅田政志


「作ってみてどうでした?」

「やっぱり普段から何も考えてないやつが、映画を撮るからといって無理にテーマを持とうとしてもダメでしたね。どうしても自分で書いた言葉が負担になるんです。だから卒業制作では企画書にテーマを記入しませんでした。それだけですごく自由になりましたね。それはドイツの映画祭で賞をもらいました」

「学校から出品したんですか」

「いや全部自分で手配したんです。ドイツのオーバーハウゼン短編映画際というので、貰ったのは、小さな賞だったんですが」

「でも、それはやる気になりますよね」

「そうなんです。それで卒業してからは、同級生の杉山ひこひことかとルームシェアしつつ、その家の中で撮れるものを作ろうということになりました。金を貯めて撮るというよりも、お金が無くてもできることを撮り続けようと」

「なるほど」

「そしたら、それを劇場でやらないかということになって、池袋のシネマロサで上映してくれました。それからです、なんだか自信を持てるようになってきたのは。それで映画を作り続けながら、四谷のイーグルというジャズ喫茶で働いてました。昼は清掃のバイトをしたり、そのあとは本の露天商をやってました」

「本の露天?」

「倒産した、本屋の新古本とか売るんです」

「駅の地下とか、本の市で売ってる?」

「そうです」

「じゃあ、バイトを掛け持ちしながら映画を撮ってたんですね」

「そうです。それで、30歳くらいの時に長い映画を撮るようになったんですけど、それまでは、シネマロサでやってくれるだろうと、そこで満足してたんですけど」

「それで最初の劇場作品を」

「『パビリオン山椒魚』です」

「あの映画は、宣伝とかも結構大々的でしたよね、出演者も豪華だし」

「そう、いま考えると、あれが一番大々的でした」

それから、数々の劇場映画を撮り、今回の、『素敵なダイナマイトスキャンダル』になっていきます。

「『素敵なダイナマイトスキャンダル』は30歳を過ぎたくらいに読んだんです。それまで末井さんは、『パチンコ必勝ガイド』のCMで女装してるタレントだと思ってたくらいでした。お母さんが浮気相手とダイナマイト心中とか、グラフィックデザイナー志望で風俗の看板描いてたとか、エロ雑誌の編集者になってとか。末井さんのことをパチンコ業界のタレントだと思っていたのを恥じて、これをぜひ映画で観たいと思ったんです」

「なるほど」

「末井さんも岡山の田舎から都会に出たいと思っていたとか、それで都会に出てみたものの自意識が強かったりして」

「冨永さん自身にも繋がるところがあった」

「はい、だから誰が読んでも共感できると思ったんです。でもすぐに映画で撮れるとは思ってなかったから、結局、10年くらいかかってます。と言いつつも自分で思っているだけの時期から徐々に進んでいって、他の映画を作りながら、近づくチャンスを伺って、それで2012年に、末井さんに直接話したんです」

「あのときだ」

「そうです」

あのとき、というのは、わたしと末井さんが参加していたトークショーのとき。あれからさらに6年、『素敵なダイナマイトスキャンダル』の映画ができました。

映画の主演、末井昭さんの役は、柄本佑さんが見事に演じております。

そして、現在から思うと、規制は厳しかったけれど、おおらかな時代だったと思える昭和の雰囲気が画面に流れていて、ヘンテコな人もたくさん出て来ます。

しかし決してノスタルジックにはならず、今がソコにある映画。是非とも観に行ってください。

さらに冨永監督が、なんとしてでも田舎から脱出しようと思っていた、熱を感じることもできると思います。



冨永昌敬 1975年愛媛県生まれ。日本大学藝術学部映画学科卒業制作『ドルメン』が2000年のオーバーハウゼン国際短編映画祭審査員奨励賞を受賞。06年『パビリオン山椒魚』にて映画デビュー、最新作は『素敵なダイナマイトスキャンダル』

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ――冨永昌敬「ダイナマイト心中」 〜後編〜

写真・浅田政志


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「映画館とかはいかなかったの?」

「映画館に行くのは怖かったんですよ。そのころウッチャンナンチャンの内村さんが、テレビの企画で、日大の映画学科を受けるというのをやっていたんです」

「あの人たちは、日本映画学校ですよね」

「そうですね」

なんだかややこしいですが、日本映画学校出身の内村さんが、日大の映画学科を受けるといったテレビ企画。

「そこで、映画の大学があるんだというのを知って、そこから日芸を目指しました」

「予備校は通ってたんですか?」

「サテライト授業ってあるじゃないですか。大きな画面に先生が映って授業する」

「はい」

「あれ生放送なんですよね。でも、自分は録画だと思ってたんです。それで、はじめて行ったとき、前の方に座ってたんですけど、なにも教科書を開いてなかったんです。そしたら、『君! 開きなさい』と画面の中かの講師に怒られて」

「録画だと思ってたのに」

「わけわからなくなって、恐ろしくなった。さらに、まわりの目が怖くて、恥ずかしくなって、行かなくなってしまいました」

「じゃあ、個人で勉強してたんですか」

「そうです。でも、よく受かったなって思いますよ」

「ビデオと勉強の日々ですね。でも、そのときに、好きな監督などを発見したんですか?」

「はい。大島渚、今村昌平、増村保造は、ビデオ屋にあった作品は全部見たんですけど、古い映画は名画座で見られるってことすら知らなかったんで、結局VHSで」

「そこで監督になることを決意した」

「というか受験のときに、とりあえず監督コースを選んだんです。それが意識したはじめです」

「学校に入ってみてどうでしたか」

「高校にも2つ行ったし大学も2つ目だったんで、ここで生きていけなかったらおしまいだと思ってましたね。自分で映画の本なんか読めるだけ読んで入学したんですけど、ほかの人たちのほうが映画見てなかった」

「冨永さんは、1年間のビデオ学習が凄まじかったですもんね」

「山奥から出てきた俺のほうが映画に詳しかったんですよ」

「一番映画に詳しい人は、どんな感じでしたか?」

「変な態度だったと思いますよ、『なんで大島観てないの』とか言ってた」

「すると、『冨永先輩教えてください!』とかなるんじゃない?」

「同期にひとり歴史家の私塾に通ってるやつがいて、そいつと仲よくしてたら、ほかの連中から『左翼だ』とか『右翼だ』とか言われました。どっちでもなかったんですけど」

「でも、映画に対しては、いろいろ詳しかったんですよね」

「知ってる気になってただけですね。映画館で映画見てなかったですもん。だから友達に誘われて映画館に行ったとき、びっくりしたんですよ」

「え?」

「VHSとの差に」

「そうか、それまでは、ビデオ学習のみだったか」

「はい」

その後、映画館でさらなる衝撃を受ける冨永さん。

「『アンダーグラウンド』を観たときに、ものすごい映画を観てしまったと思いました。シネマライズの最前列で、ちょっと見上げるような感じで観てたんです。それで、後ろの方を見ると、客もみんな興奮してるのがわかるんです」

「『アンダーグラウンド』は、映画自体の熱気もすごいですもんね」

「だからもう、VHSを見るのはやめようと思いました」

このような映画館体験をした冨永さんは、いよいよ映画を作りはじめます。

「そう、そのころは、だいぶ田舎者臭さが抜けてました」

「どんな感じで?」

「方言が抜けたら性格も変わってきたんですよ」

「どんな風に?」

「普通に映画館に、楽しい映画を見に行けるようになったんです」

「VHSの時代も終わり」

「はい。そのころ実家に不幸が続いたんですけど、そういうのがあって大人しくなって、逆に自意識が薄くなった気がします。そうすると気の合う友達も増えて、大学が楽しくなりましたね」

「それで、大学4年で卒業製作を?」

「はい。まず3年生で15分の短い映画をつくります。でもこれが難しくて。学内で作品を作るときには企画書にテーマを書けと。でもみんな20年しか生きてないから、描きたいテーマなんて持ってないんですよ。だから大学生や高校生が主人公の学園モノが多くなるんですね。だったら自分は違うことをしようと思って、誰も理解できなくてもいいからと、おどろおどろしいテーマを書いて提出しました」

「どんな話だったんですか?」

「雨不足で産湯が用意できず出産に失敗するという」

「反応は?」

「学内ではボロクソでしたけど、いまだに最高傑作と言う友達もいます」

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SWITCH INTERVIEW ――冨永昌敬「ダイナマイト心中」 〜前編〜 2page

写真・浅田政志

「決定的だったのは平成の大合併です。ぼくの住んでいた所は、隣の内子町に入れてもらったんですけど、向こうは立派な町なんで、うちの方の客商売は全滅です。役場とか農協の人の飲み会は、そっちの方に流れていっちゃったんです」

「じゃあ、お遍路さんくらい」

「お遍路さんは、ちょいちょいブームがあるんですね。それで若い人が、よく郵便局の駐車場で寝てたりしてるんですけど、そうすると父が『うち空いてるから泊まっていいよ』とタダで泊まらせたりしてました」

「お父さん優しい」

「それで、泊まってる人たちが風呂に行くルートの廊下があって、その途中に俺の部屋があったんですよ」

「覗かれたり?」

「覗かれはしなかったけど、客の声とか聞こえてきて」

「夜の営みとか」

「いや、それはなかった。うちの旅館では、営む気になんかならなかったと思いますよ」

「どうして」

「まったく風情がない、本当に飯場みたいな宿だったので、それよりも喧嘩の声とか聞こえてきました。道路工事のおっさん同士の喧嘩で、仲間外れにされたおじさんが所在無く廊下で立っていたりすると、父が仲裁してました」

「優しいですねお父さん」

「まあ廊下で寝られたりしても困るからなんだろうけど」

なんだか自分としては、しっくりこないと感じていた環境で育った冨永さん、中学生になります。

「地元に劇場はないし、民放も二局しか映らなかったんで、中学のときに衛星放送が開局するまでは、あんまり映画を見ていなかったですね。録画できるのがスナックに置いてた小さいテレビデオしかなくて、営業が終わった深夜、客が食い散らかしたツマミとか食いながら、カウンターに座って観てました」

絵になるような、映画になるような光景ですが、当時の冨永さんは、それも嫌でしょうがなかった。

「部活は?」

「野球でした」

「まじめにやってましたか?」

「頑張ってたつもりなんですけど。そのくらいから、部活を頑張ってもなと思ってました。それよりも地元を出たかった。それで、勉強出来る子供は地元を出て、松山市内の高校に通って寮に入ったりするんですよ」

「じゃあ勉強を頑張ろうと」

「はい。それで高校は、松山の高校に行くことになるんです」

「良かったですね。寮ですか」

「母の実家が松山にあったので、そこに下宿して学校に通いました。でも誤算だったのが、母の実家は土建屋なので、やっぱりいつも他人がいるんです。大工とか鳶とか、多感な時期の男子にはリアルすぎる人々ですよね。実家にいたときとほぼ同じですよ。自分の部屋は事務所の2階で、住み込みの職人さんが使ってた部屋でした」

これまた、なんともいえない環境です。

「でも、一応、地元を脱出できたから」

「いや、恥ずかしい話なんですが、進学した高校は、1年持たなかったんです」

「せっかく勉強して入学した松山の生活なのに」

「はい」

「どうしてですか?」

「人間関係で失敗しました」

「なにがあったんですか?」

「つるんでた連中がちょっと不良っぽいやつらで、馴染もうと努力したんですけど、もともと山奥で平穏に生きてきた人間なので、だんだん距離を置くようになったんです」

「それでシメられた」

「だから一学期だけ最高に楽しくて、二学期からイジメられるようになって、三学期はほぼ登校拒否でした。そのときのクラスメイトだった女子と、年末に久しぶりに会ったんですけど、やっぱり傍目にも挙動不審だったみたいです。で、結局2年生から地元の高校に転校しました」

「また実家ですか?」

「そうなんです。地元の高校は200人しか生徒がいなくて、規則で全員運動部に入らなきゃいけないからソフトボール部に」

「都会に出たつもりが、また田舎に戻ってしまった」

「はい、恥ずかしかったですね」

「それでもやはり地元を出たい気持ちはあるんですよね」

「そうです。でも、その高校は大学進学する人が少なくて、ほぼ商業高校みたいなものでした。だから大学進学というリアリティがないんです。自分の偏差値もよくわかってないくらいで」

「でも、地元は出なくてはならない」

「なんとなく京都に行きたかったんですけど、関西は四国の人がいっぱいいるから、知ってる人に会っちゃうような気がして、東京の大学を受験しました」

「そのとき日大の芸術は受けたんですか?」(冨永さんは日大芸術学部の映画学科卒業)

「いや、そのときは受けてないんです、映画の世界に行こうなんて思ってもいなかったから」

「そうなんですか」

「ある大学に入学したんですけど、せっかく東京に出たのに校舎がすごい山奥にあって」

「都会じゃなかった」

「そのショックが強烈で、なんで自分がそこにいるのかわからなくなって、それからはバイトしながら仮面浪人ですね」

「そのとき住んでいたのは?」

「立川です。で、その浪人時代に、レンタルビデオでまた映画を観るようになったんです」

後編へ続く

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SWITCH INTERVIEW ――冨永昌敬「ダイナマイト心中」 〜前編〜

写真・浅田政志


冨永昌敬監督の映画、『素敵なダイナマイトスキャンダル』が公開されます。わたしはこの作品に、少しだけ出演させてもらっているのです。『素敵なダイナマイトスキャンダル』は、末井昭さんの自伝本が原作で、末井昭さんといえば、若き日の荒木経惟さんが活躍していた伝説の雑誌、『写真時代』の編集長でした。この雑誌、あまりにも過激だったため、いろいろと大変なことがあり、映画には、そのような場面もたくさん出てきます。さらに末井さんが子供の頃、お母さんが、ダイナマイトで心中したことから、このような題名になっているのですが、そこからもう強烈なのです。

わたしは若い頃に、この本を読んでいたので、映画になると聞いたときは嬉しくて、さらに監督が冨永昌敬さんということで、こりゃ楽しみだと思っていたら、自分も出ることになったのです。それでもって、冨永さんが、『素敵なダイナマイトスキャンダル』を映画にしたいと、原作者の末井さんに話をしたのは、数年前、わたしが、末井さんと南伸坊さんと秋山道男さんで、なにやらヘンテコなトークショーをしたときだったらしいのです。

そんなこんなで、何の縁だか、よくわからないけれど、誘ってくださりありがとうございます。そして、映画完成おめでとうございます。わたしは、冨永監督の『ローリング』という作品がとても好きなのですが、冨永監督の作品は、どこか抜けているようだけど、社会をジッと見据えているような感じがするのですが、そのような作風は、今回も生かされているのではないかと思います。では、どのようにして、このような作風になったのか? そして冨永さんが、どのような感じで育ち、映画を作るようになったのか、訊いてみたいと思います。
(戌井昭人・記)


「冨永さんが生まれたのはどこでしょう?」

「愛媛県の山奥です。いまは合併して内子町というところになってます。大江健三郎さんが生まれたのが同じ内子の大瀬なんですけど、ぼくの家は、さらに奥へ行きます」

「山間部なんですか?」

「でも、中途半端な高さの山ばかりで、強いていえば、四国なのにスキー場があるってところです」

「名産は?」

「椎茸があります。それで、その椎茸の出汁のうどんがあるんですけど、あんまり美味くないんだな」

なんだか、いろいろボヤけているような町なのかと思っていたら、内子町で大きな川の蟹を食べたことがあると、スイッチ編集長の新井さんが話します。かぼちゃと茹でてで臭みを抜いて食べるのだとか、「おいしかったですよ」と新井さん。冨永さんが言うには、そのカニは、ツガニというものらしいのです。美味そうだな、ツガニ。

「じゃあ、山や川で遊びまわってた感じですかね」

「小魚釣ったり、泳いだりしてました。とにかく、それしかなかった」

「冨永さんの実家は、どんな商売してたんですか?」

「旅館だったんです。泊まるのはお線路の人か、昭和の頃に計画されてまだ終わっていない工事があって、その工事をしに来た人たちです」

「いまも営業してるんですね」

「はい。でも部屋数は少ないので、ひとつの業種では食えないから、うちの父は以前、スナックをやっていました。でも、もう閉めて、いまは弟夫婦が、近所でうどん屋をやってます」

「椎茸出汁の?」

「いえ、弟は讃岐に修行に行ったので、そのようなうどんを出してます」

旅館が実家というのは、なんだかワクワクしそうな感じもしますが、冨永さんの場合は、どうも違ったらしい。

「子供の頃は、泊まりにくる人たちを見ながら育ったわけですよね。毎日、いろんな人に会えて刺激がありそうな感じがしますが」

「まあ、いま思うと面白い環境だったのかもしれないけれど、当時は嫌でした。旅館は建て増しをしてて、一番古い部屋は、明治の頃。だから、ちょっと建てつけが悪くて、そこに、工事の人や、お遍路さんの人が泊まっていました。それで、旅館の敷地内にスナックがあって、その上が宴会場なんです。町の人が二階で宴会してて、スナックでは、担任の先生がカラオケを歌ってるんです。さらに、たまに酔った担任が部屋に上がってくるんです。それで居間でテレビを見てたら、『勉強せんか!』ってベロベロな状態で言われて」

「多感な時期に、まわりがガヤガヤですね」

「本当に嫌だったなぁ。でもね、町がだんだんさびれてきて、客も少なくなってきたんです」

「さびれていく様子を見るのは、さみしくなかったですか?」

「いや、ぼくにとっては良かった。過ごしやすくなっていったんです」

「どうしてさびれていったんですか?」



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SWITCH INTERVIEW ―― 優河「抹茶、オレオクッキー、ラズベリー」 〜後編〜 2page

写真・浅田政志


「それは何かから、抜け出した感じだったのかな」

「はい。そこから性格も変わりました」

「新生・優河になったきっかけは?」

「高校を卒業したら、どうしようか決めてなかったんですけど、友達が音楽の学校に入るので『優河も行ってみれば』って言われて、その4日後に入学してました。そこから変わっていったような気がします」

「変わったのは、どんなところが?」

「それまでは人を信じないというか、人の顔色ばかり伺っていた気がします。両親が芸能の活動をしていて、それで見られることが多かった。それがコンプレックスでした。だけど、そのコンプレックスから抜けて素直になっていった」

「なるほど」

「人に甘えられるようになったというか、無理なものは無理と言えるようになりました。あとは単純に人と話せるようになったのかな」

「壁を作らずに」

「はい」

「じゃあ新生になったから、音楽の学校は相当楽しかったのではないですか?」

「そうです」

「場所は?」

「池尻大橋です」

「吉祥寺を抜けましたね」

「はい」

「学校ではどんなことを?」

「そのときは、カバーしか歌ってなかったんですけど、あるとき先生に、『お前は歌えるのに、自信なさげで、ムカつくな』って言われて、『曲作ってこい』って言われたんです。それで作っていったら、『まだムカつくな、ギターでも弾いてこい』って言われて、ギターも弾きだして」

「先生に言われて」

「そう。『なんかお前気に食わない』って言われて、やっぱり人に言われて、いろいろはじめて、自分で決めてないような」

「でも先生のその言葉で、曲を作り出したんですもんね」

「はい」

「最初に作った曲は?」

「ラブレターという曲です。恥ずかしくて、いまは歌えないです」

「その後、どんどん作ってくんですよね」

「そうです」

「ライブとかは?」

「最初は、小さいところで、友達とやったりしてました。それで、高校時代から習っていたボイトレの先生が、サラヴァ東京というお店ができたから、そこのオープンイベントのオープンマイクで歌わないかと言われて、歌ったんです。そしたらアツコ・バルーさんというオーナーの方に、『あなたここで働きながら、ちゃんと音楽やりなさい』って言われて。それで学校に通いながら、バイトしてました。そこからサラヴァ東京をメインにライブをやるようになります」

人前で歌い出した優河さん。

優河さんは、人に促されてというけれど、あの歌声は、歌うべき歌声であったのかもしれません。

さらに誰でも、優河さんの歌を聴けば、他の人にも聴いてもらいたいと思ってしまいます。


「ストリートとかで歌ったりは?」

「一、二度、吉祥寺で歌ったことがあります。自分の歌でお金をもらえるだろうかと思って」

「場所は?」

「井の頭公園」

「吉祥寺だ。結果は?」

「お金はもらえなかった。でも、おじさんが一人話しかけてきて」

「そのおじさんは、どんな人だったんですか?」

「おれはギター作ってるんだと」

「ギター作ってる人だったんだ」

優河さんが井の頭公園で、さりげなく歌っていると、自然に紛れ込んでいるような感じがして、どこにいるのかわからなくなってしまいそうです。

「でも、そのころは、今の声と違って、もう少しべたっとしてました。奥行きがなかった気がします」

とにかく歌いはじめ、歌を作り出した優河さん。どのようにして歌を作っているのでしょうか?

「歌詞の着想は?」

「まず景色がはじまりですね。あとは、ピンと来る人がいたら、その人の人生を想像して書いたり」

「その人の物語を勝手に考える?」

「そう、勝手な物語です。その人のふとした表情とか、ボソッと言った一言から物語を作っていく感じもあります」

世の中には、優河さんの歌を聴きたい人が、まだまだ沢山いるはず。

あの歌声が、いろいろな場所で流れているのをわたしは聴きたい。そして、その場が少し静まってしまうのを。でも、そのとき我々は、とても清々しい気持ちになっていることでしょう。これからも、どんどん歌を作って、いろいろな場所で、歌を唄ってください。



優河 1992年生まれ。シンガーソングライター。心震わせる歌声は注目を集め小島ケイタニーラブやおおはた雄一など、多くのスタジオレコーディングに参加。また待望のニューアルバム『魔法』を3月2日にリリースすることが決定。千葉広樹(Kinetic、サンガツ、rabbitoo等)、岡田拓郎(ex.森は生きている)やharuka nakamura、神谷洵平(赤い靴)らといった実力派ミュージシャンとエンジニアの田辺玄を迎え、エレクトリックな楽器やサウンドを取り入れることによりこれまでとはひと味違った作品に仕上がっている。アルバム発売を記念して4月13日には渋谷 QATTROでのワンマンライブも決定している。
http://www.yugamusic.com

戌井昭人 1971年東京生まれ。作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ―― 優河「抹茶、オレオクッキー、ラズベリー」 〜後編〜

写真・浅田政志


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高校に入ってボイストレーニングをはじめた優河さん、どのような感じだったのでしょうか。

「ボイトレは吉祥寺で?」

「東小金井です」

「吉祥寺から少し離れましたね」

「はい」

「でも近いし、都心方面では無い」

「そうなんです」

「他には、何をしてました」

「あとは、ずっと遊んでました」

「遊びは中学と変わらず?」

「そうですね」

「カラオケ、ゲーセン、喫茶店」

「ちょっとメンバーが変わったくらいかな」

「カラオケで、『これ歌ってよ』とかならなかったんですか?」

「でも、わたしが歌うと、静まっちゃうんですよ。盛り上がらない。だからあまり歌いたくなくて。それが嫌だったんです」

学校の皆を、シーンとさせてしまったくらいの歌声。

友達とワイワイやってるカラオケで、優河さんが歌うと、いったいどんな風になってしまうのだろう。覗いてみたい気もします。


「ボイトレの成果は?」

「音域が広がって行くのがおもしろかった。先生にも、もっとやれば、もっと出るよって言われて」

「そうすると、さらにカラオケで静まり返っちゃうかもしれない」

「はい。でも自分では、歌が上手いとか思ったこともなくて」

「良い声だとも?」

「はい、良い声ってのがわからない、みんな同じ声だと思ってました」

「そうなんですか」

「というか、あまり音楽に興味がなかった。バンドも人に言われてやってたし、ボイトレも母に言われてだし。だから自分がこの音楽好きというのが、いまでもあまりなくて。なんだろう。音楽に対して、この人の声が良いとか、歌詞が良いとか、そういうことがまったくわからなかったんです」

吉祥寺でおしゃべりをして、楽しく過ごしていた高校時代の優河さん。しかし高校生二年生のころ。

「高校二年生のときに留学して、オーストラリアに一年行ってました。そこで音楽の授業があって、ギター弾いて歌ってる女の子がいたんですけど、彼女を見て可愛いな、格好いいなと思って、わたしもギターをポロポロって弾きはじめたんです」

「そんな感じで、楽しそうな留学生活が」

「でも、ホストファミリーとうまくいかなくなってしまって」

「どのようにうまくいかなくなったんですか?」

「半年間無視されてたんです」

「半年も!」

「最初の半年は良かったんですけど」

「どうしてそうなってしまったんですか?」

「ホストマザーのお母さんが亡くなったんです。そのときからホストマザーが、精神的に不安定になって、わたしに対して素っ気なくなったんです。それを見たホストシスターの双子が、お母さんの真似をして、無視をはじめて」

「それはキツイですよね」

「辛かったので、ホストをチェンジすることもできたんです。相談役の人がいて、その人に相談すればよかったんですけど、その相談役の人が、わたしに、『他の子が、チェンジしすぎる』って話してて、何も言えなくて」

「困りました」

「でも学校は楽しかったんです。それに『いま辛い状態なんだ』って、先生や友達に話してたから、英語は上手くなりました」

「留学を終えて日本に戻ってきたら、どうでした?」

「あまり元の友達と話せなくなってました。だから『優河変わったね』って、友達に結構言われてました。でも変わりますよね」

「そうですよね」

「それで日本に帰ってきたのが、ちょうど三学期で、うちの学校は、その時期、受験のための期間で授業が無いんです、だから学校にも行かなくて、外にも出なくて、家でずっと泣いてるという時期が三カ月くらいありました。さらに、お兄ちゃんも妹も留学してたんで、家では、はじめて一人っ子状態になって、赤ちゃん返りみたいになっちゃったんですね。親に甘えられる、わがまま言いつくせるって。そして泣き尽くしてたら、いまの優河が誕生したんです」



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SWITCH INTERVIEW ―― 優河「抹茶、オレオクッキー、ラズベリー」 〜前編〜 2page

自分が吉祥寺で思い浮かべるのは、いせや(焼鳥屋)なので、その話を優河さんにすると。

「そうだ。公園のいせやの下の、ドナテロウズっていう喫茶店でアイスを売ってて」

ちなみにいせやは、井の頭公園の入り口のところと、バス通りのところ二軒があります

「あそこでアイスをたべるのが好きでした。三種類選んで、最後に混ぜたら一番美味しいのは何だろうと、兄妹三人で研究してました」

「研究結果は」

「抹茶、オレオクッキー、ラズベリーかな」

「それを最後に混ぜるんですよね」

「そうです」

「全部、主張がありそうな味ですが」

「でも美味しかった」

「あのお店はもう無くなってしまいましたよね」

「はい。一番良い喫茶店だったのに」

「他に吉祥寺で食事するところは?」

「近所の焼肉屋さんとかイタリアン。そこには、誕生日のときなんかに行ってました」

「そんなこんなで、吉祥寺をうろつきながら、お育ちになって」

「でも小学校のときに、うろつくのは公園くらいでしたよ」

「そうか、じゃあ中学に入って、少し範囲を広げて吉祥寺をうろつく」

「そうですね」

「中学のとき、部活とかは?」

「器械体操です」

「どうして器械体操だったんですか?」

「小学生の終わりくらいから、器械体操の面白さに目覚めて。それで、中学もやったんだけど、すぐにやめてしまいました」

「オリンピックに影響されたとか?」

「いえ。スポーツ全般は苦手で、苦手意識もすごかった。でもマット運動だけできたんです。バク転とか。それが嬉しくて」

「バク転ってすごいですよね」

「最初は側転、そこから、足をつけて下りるというのがあって、次にハンドスプリングになって、そういうのを徐々にやってたら、バク転になったんです」

「それは学校の授業?」

「そうなんです。バク転はギリギリ、補助ありでできたんですけど」

「いまバク転は?」

「できません」

「体が柔らかいんですね」

「でも、いまは硬い。当時はブームみたいな感じで、友達同士で頑張る感じでやってたんです。わたしは中の下でしたけど」

「部活をやめてからは?」

「それからは、ずっと遊んでました」

「どんな遊び?」

「ゲーセン、デパートの屋上とか、あとはカラオケです」

「ゲーセンではなにをしてたんですか?」

「プリクラです。あと先輩と一緒にお茶をしたりしてました」

「どこでお茶を?」

「ココスとか、マクドナルド」

「そこで駄弁ってるんですか」

「そうです」

このように、まだ音楽に行き着く感じはないのですが、優河さんは、中学のときに友達とバンドを組んだそうです。

「当時はガールズバンドが流行ってて、友達とやろうとなって」

「どんな音楽?」

「アヴリル・ラヴィーンとかグリーン・デイとか」

「楽器は、なにを担当してたんですか?」

「ベースです。そのとき初めてベースをやりました」

「どうしてベース担当に?」

「男の先輩がバンドをやってて、それぞれ好きな先輩と同じ楽器にしようということで、わたしはベースになりました。でもチューニングの仕方もわからない感じだった」

「発表とかライブは?」

「学校のバザーでやったんですけど。持ち曲が少なくて、『優河、一曲歌いなよ』となって、そのとき初めて人前で歌ったんです。それを母が見てたんです。体育館でやってたんですけど、最初はまわりがガチャガチャ騒がしかったけど、母が言うには、わたしが歌いだしたら、その場がシーンとなったらしくて」

「凄い」

「それで母が何かを感じたらしく、高校に入ったら、ボイストレーニングをはじめてみたらと言われたんです」

「そのときなにを歌ったの?」

「AIさんの『Story』って曲です」

「アカペラで?」

「ピアノの伴奏で」

「ピアノは誰が弾いてくれたの」

「鎖骨にヒビ入れてくれた友達が」

「鎖骨の子は、ずっと仲良しだったんですね」

「そうなんです」

「鎖骨の子、お名前は?」

「山本さんです。音楽もそうですし、彼女には、いろいろ教えてもらいました」

「K−1も」

「彼女は、お兄ちゃんがいて、そのお兄ちゃんから影響受けていたんですね」



後編へ続く

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SWITCH INTERVIEW ―― 優河「抹茶、オレオクッキー、ラズベリー」 〜前編〜

写真・浅田政志


お会いする数週間前、いつも優河さんのCDを聴きながら、作業をしたり、ご飯を食べたりしていました。その歌声を聴いていると、清流が流れているような気持ちになり、部屋の隅々まで歌で満たされると、優河さんが、そこにいるような気がしてきました。しかし、その声を辿っていくと、どんどん遠くにいってしまう。そんな奥行きのある歌声。森の奥、海の底、空の果てへ、迷いこんでしまったような気持ちにもなってくる。本人は、そこにいるのだけれど、近づけない。このような感じで、CDを聴きながら数週間経ち、実際の優河さんに会うことになりました。 わたしは緊張していました。歌声を聴いて、なかなか近づけないような気がしていたからなのです。

現れた優河さん、挨拶をすると、あの声で「こんにちは」。勝手に感動してしまいました。さらに声に集中すると、なんだか、アッチの世界に連れていかれそうになりました。でも優河さん、あの声で、実はとても気さく、いろいろと話してくれました。その話は、別に奇をてらっているのではなく、あくまで吉祥寺ローカル。優河さんの声で、「井の頭公園」「いせや(吉祥寺の焼鳥屋)」と発せられただけで、そこが、とても素敵な場所になるような気がしました。どちらも実際に良い場所なのだけれど、井の頭公園の池が透明になり、いせやの便所に清流が流れている感じがするのでした。
(戌井昭人・記)


「生まれたところは?」

「東京都の中野区です」

「育ったのも?」

「育ったのは吉祥寺です」

「すると遊びはもっぱら井の頭公園ですか」

「そうです。記憶がそこしかない。学校も吉祥寺だったんで、ほとんど吉祥寺から外に出ないで過ごしていました」

「井の頭公園以外で、他に行ってた場所は?」

「吉祥寺のゲーセンとか」

「ゲーセン?」

「吉祥寺の伊勢丹の前に小道があって、そこにあるゲーセンによく行ってました。あとは伊勢丹の屋上とかに」

「幼稚園の頃は? どんな遊びをしていましたか」

「両親が共働きだったので、家にシッターさんがいて、妹とシッターさんとわたしで、飛行機ごっこというのをやってました」

「飛行機ごっこ?」

「幼稚園とかにある、木の椅子あるじゃないですか、あれを一番前に置いて、二番目に背もたれのある椅子を置いて、三番目にソファーを置いて、エコノミークラスからファーストクラスになっているんです」

「椅子の良し悪しで、クラスが違う」

「それで、ファーストクラスだったら、そこに座るのに似合った名前を自分でつけて」

「ファーストクラスは、どんな名前?」

「たしか、みどりって名前だった。それで、お菓子を持ってきてもらったりして」

「みどりは、ファーストクラスだから態度も大きい」

「そうです」

「客室乗務員は?」

「それはエコノミーの人がやってました」

「エコノミーの人は大忙しですね」

「はい。そういう遊びをしてました。それが一番印象的な遊びだったかも」

「小学校の頃の印象的な出来事とかありますか」

「一度、女の子と取っ組み合いをして、鎖骨にヒビが入ったことがあります。四年生だったと思います」

「どうして取っ組み合いに?」

「その女の子がK−1が好きで。『優河やろうぜ』って感じになって、やられたんです」

「蹴りをくらったんですか」

「いえ。『ガンッ』て、押されて鎖骨がビリビリと。でも折れてはなかった」

プロレスごっこの延長みたいなものですけれど、男勝りというか、男子の遊びのような気もします。

「活発で体を動かすのは好きだったんですね」

「授業中とかは、あまり手をあげたりはしなくて、おとなしかったけど。男の子を追いかけまわしたりはしてました」

「どんな感じで追いかけてたんでしょうか」

「オラ〜って」

「オラ〜って本格的じゃないですか」

「お母さんがPTAで打ち合わせをしているとき、『オラ〜、オラオラ待ちやがれ』って声が聞こえてきて、ふと見たら、わたしが男の子を廊下で追いかけていたんですって」

「凄まじいですね」

「だから母には、『あのときは本当に恥ずかしかった』と、いまだに言われます」

「習い事とかは?」

「ピアノです。でもいまは弾けません」

「他には?」

「英語のクラスに通ってました」

「家の近くですか?」

「吉祥寺。だから小学生くらいのときは、電車に乗った記憶がほとんどないんです」

「ぜんぶ吉祥寺ですね。でも、なんでもありますもんね吉祥寺は」

「そう、そこから出なくて良い。そこで全部完結できるんです」

「自転車で遠出とかもしてない?」

「してないですね」



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SWITCH INTERVIEW ―― 串田和美「『牟礼』の奇妙な人たちへ」 〜後編〜 2page

写真・浅田政志


「芝居への思いが芽生えたのは?」

「中学の新入生歓迎で、お芝居をやってたんです。『瓜子姫とあまんじゃく』っていうもので、観ていたら、ヤジ飛ばす奴とかいて、『つまらねえぞ、やめちゃえ』ととにかくひどくて、しまいには、そいつが舞台に上がって、先生が出てきて、揉めてるの。でも、ちょっと待てよと思ったら、その先生も子供だった。それも全部お芝居だったことに気づいて、すげえなと。芝居はこんなことができるんだと思ったんです。世界をひっくり返すことができるんだと。それで一緒に観ていた友達と演劇部の部室に行ったんです」

「いよいよですね」

「でも、誰もいなかったんだ。そしたら机にドーランがあってね、これで顔を塗るんだと、蓋を開けたりしてたら、国語の先生がやってきて、『そのニオイ嗅いだらやめられないよ』って言ってニヤッと笑ったんです。『えー、嗅いじゃった、どうしよう』って。そこから演劇をはじめたんです。それでね、僕が観ていた芝居は、瓜子姫が長山藍子さん、ヤジを飛ばしたのが山本圭だったんです」

「はじまりは、ニオイ。子供の頃の芝居小屋の、オニギリの海苔やムシロの匂いもありましたね」

「それはニオイいというしかないものがあるんだ。全体を捉えるニオイ、未来を感じたり、過去を感じたりするニオイ」

「ドーランは、具体的にはどんなニオイだったんですか」

「桃山というメーカーので、椿油が混じっていたんだ。あまり良いニオイではなかったけど」

「そして、『そのニオイ嗅いだらやめられないよ』と」

「その先生は松田先生といって、文化祭になると、先生なのに白塗りして、パントマイムとかやっている。民芸の研究生とかまでいったらしくて、だから余計に、やめられないよっていうのがあったんだね」

「それからは山と演劇」

「いろいろ掛け持ちしてました、山に登る体力をつけるために、サッカー部に入ったり」

「山はどんなところが良かったんですか?」

「山って、一人で行くと、誰にも見せない自分がいるんです。それで、一人のときって、実はキチンとするというか」

「キチンと丁寧に?」

「そう。山の上って昼飯食うのにも、あの岩の上にしようとか考える自分がいて、外から、自分を考えるんです」

「なるほど」

「それでね、これは何だろうなと思って、なんというか、自分のために見せるお洒落というか、気取って笛なんか吹いたりしてね。客がいないお洒落」

「一方で、芝居は人に見せるお洒落」

「そう。極端な自分がいる。だから芝居を作っていても、全部わからなくてもいいや、という気持ちがある。わかりにくいというわけではなくてね」

「一人オシャレの瞬間が。高校を卒業してからは?」

「僕は、成績も悪くてね、推薦で大学に行けなかったの」

「串田さんは成蹊ですよね」

「はい」

「成蹊は下から上に勝手に上がって行くイメージがありますけど」

「だから、相当勉強やってなかったんだね」

「演劇と山」

「それに僕は、何度も下の学年に落ちそうになってたんだ。でも年子の弟がいたから、落ちたら一緒になってしまう。それだけは嫌だった。書道部の奴なんか、『ずっと字を書いてたら落ちたんで、四年います!』とか言ってたけど」

「串田さんは、絶対落ちられない」

「そう。でね、秋の終わりに『大学には行けないよ』と言われて、そこから必死に勉強するんです。しかも、冬にやろうとしていた芝居が、流感がはやっちゃってできなくなったんです。『終電車脱線す』という椎名麟三の作品で、電車が脱線して帰れなくなった人たちのエゴが出たりする話で、紙に電車を描いて、バリバリ破いてそこから転げ落ちるとかアイデアも出してたんだ」

「でも、それが中止になって、勉強を」

「そう、そこで受験勉強をするんですけど、二月の早稲田は落ちて、一カ月後、日芸を受けて入ったんだけど、その頃の日芸は何もなくて、一年でやめて、俳優座に入ったんです。そこでいろんな人と知り合って、いろいろ作りたいと思い始めた。そこで自分たちで劇団を作ろうと、六本木の建設中だった地下鉄の駅で話したんだ」

「それで自由劇場が?」

「でもね、まだ自分たちは力が足りない、次の人たちが卒業したら始めようと。そこで、僕は、その間に文学座に入った」

「そうなんですか」

「やめないですよね、って言われたんだけど」

「そうか、分裂騒動とかあったから」

「そうなんだ、でも一年でくらいでやめてしまって。文学座のみんなには可愛がってもらったし、良い思い出なんだけど」

「やっぱり、自分たちではじめると」

「そう。そこで自由劇場を作るんだ」

串田さんは、「ニオイというのは理屈がない。理屈があるのは、説得しなくちゃならない理由があるからなんだ。そして理屈が揃うと争い、戦争になったりする。だったら理屈がない方が正しいように思える。とにかく、自分を一番動かすものは、理由がないんだ」と最後に話してくれました。

わたしはこの言葉を聞いて、十五年前に観た、串田さんの「ゴドーを待ちながら」を思い出しました。

そして、串田さんの話してくれた牟礼の人たちのこと思うのでした。あの人たちも、理屈も理由もなく、そこに存在していたのでしょう。是非とも今度、もっと牟礼の人たちの話を聞かせてください。



串田和美 1942年八月六日生まれ、演出家 俳優。父は哲学者串田孫一、祖父は三菱銀行初代会長の串田万蔵。劇団文学座を経て1966年吉田日出子らとともに自由劇場結成。以降コクーン歌舞伎、平成中村座で中村勘三郎と数々の名舞台を演出、2003年まつもと市民芸術館館長・芸術監督に就任、現在に至る

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ―― 串田和美「『牟礼』の奇妙な人たちへ」 〜後編〜

写真・浅田政志


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『泥棒』
「あとね、泥棒って人がいてた」

「泥棒?」

「見た目がいかにも泥棒、三船敏郎と原田芳雄を混ぜたような人で」

「格好いいですね」

「そうなんだよ。渋い顔して、髪の毛も眉毛も濃くて、こげ茶のとっくりセーター着てて、兵隊ズボン、地下足袋を履いてるんだ。泥棒は、お母さんと一緒に住んでいて、お母さんは小さい人で、いつも『すいません、すいません』と謝りながら歩いてたから、やっぱ泥棒の母さんだから謝ってんだと、子供は勝手なこと言ってた。原っぱの真ん中にバラックみたいなのがあって、そこが泥棒の家なんだ。あるとき、子供達で泥棒の家を探検しようということになって」

「子供は暴走しまくりますね」

「ほふく前進して原っぱを進んでね。それで泥棒の家を覗いたんだ。ドアの隙間から。そうしたら、マリア像があって、光が部屋に差し込んでいて、その光が像に当たってていた」

「神々しい」

「びっくりしてさ、泥棒の家に後光が差すようなものがあるんだ。それでみんな黙ってしまって、なにも喋らず帰りました。そこで泥棒という概念が消されたんだけど、どうしても次に当てはまるものがない」

「泥棒は、見た目だけだったと」

「そう。泥棒は悪い奴じゃなかったという概念」

「当たり前の道徳観が揺らぐというか、和らいだというか」

「そうなんだ。それでそのとき住んでいた家には、玄関の脇に孫一の書斎があって、そこに、本当の泥棒が入ったことがあるんだ。その泥棒は、そっと静かに入ろうとして、窓枠のパテを外して、ガラスを外して、地面に置いて、鍵を開けて入ったらしんだけど、本だらけで盗むものがない。そこで万年筆だけ盗んでいったんだ。でも昔の物書きは、何年もかけて自分の万年筆のペン先を育てるから、『あれじゃなきゃ。やっと馴染んだのに』と悔しがっていた」

「そうですよね」

「あと残念だったのが、外したガラス窓を、外に出るとき、踏んだらしく、割れてたんだ。それを悔しがってたな」

「せっかく綺麗に外したガラスだったのに」

「そうなんだ。子供ながらに、変なこと気にしてるなと思ったけど。あとはね、足跡があって、そこには地下足袋みたないのがあったんだ」

「泥棒は、あの泥棒かも」

「そう、ぼくは、あの人なんじゃないかなと思ったんだ。でも言わなかった。言えなかった」

「マリア様を見てるし、概念も揺らいでたから?」

「そうなんだ。そんな記憶があります」


『宝くじに当たった家の子供』

「宝くじに当たった家があってね、そしたら、その子供が、白いセーターを着て、コールテンのジャケット着て、これ見よがしに歩いてたな」


『向かいの家のセロ弾き』

「向かいに住んでたのは、宮内庁に勤めていた人で、あるとき菊の紋の付いた馬車が来て驚いた。その家にはセロを弾く人がいて、離れの小屋で、いつも弾いてたんだ。杉の皮が張ってあるような小屋で、そこを覗きに行ったんだ」

「また覗きだ」

「そう、子供だから、すぐ覗くの。そうしたら裸の女の人の背中があった」

「あら!」

「いま思うと、マン・レイの写真みたいで、見ちゃいけない、大人の世界を見てしまった」


『絵描きの真垣さん』

「真垣さんという絵描きは、よくうちに遊びにいきてて、フルートはじめましたと言って、吹いてくれるんだけど、息の音しか聞こえない。『シュー、パッポ、ヒャー』って。本人は、吹いてるつもりなんだけど。あと真垣さんの家に、お風呂ができたから、遊びに来てくださいと言われて、父と行ったら、『そこの庭にお風呂沸いてますから、あったまってますよ』って、そしたらドラム缶の風呂あってね、僕は孫一と入ったんだけど、足のところに何かあって、『なにかありますけど?』って訊いたら、『それ洗濯物だから踏んどいてください』って」

「なんというか」

「でね、僕は、その家に弟と、絵を習いに行くようになったんだ。そうしたらそこに裸の女の人がいて、みんなで描いてるんです」

「子供も混じって?」

「僕たちは、目の前に果物を置かれて『これを描きなさい』と」

「でも、向こうには、裸の女の人が」

「そうなんだ。それで、真垣さんは、『綺麗なおっぱいだな!』とか言ってるんですよ」

「奔放なおじさんですね」

「でね、通っていうちに、あるときから同い年くらいの女の子が絵を習いに来たんだ。可愛い子でね。でも、その女の子と裸の女の人がいるというのが、どうにも落ち着かなくて。その子が来たら、僕は耐えられなくなってきて、行かなくなっちゃった」

牟礼時代の濃い人たちは、まだまだいるそうで、今度じっくりお話を聞かせていただきたいです。では、終わりがあるので、次に行ってみましょう。

「牟礼はいつまで?」

「中学の終わりくらいまでです」

「中学の頃は、どんなことしてましたか?」

「山登りに連れていかれて、それからは、ほとんど山登り。三年の頃は、山岳部のキャプテンになって、冬にも登るようになった。その頃に、家の前の細い道が広くなるので、工事がはじまるということで、それで引っ越しをしたんだね。結局工事はなかったんだけど。それで小金井に山小屋みたいな家を建てて引っ越しました」

「串田さんは、そこには、どのくらいまでいたんですか」

「高校生から、俳優座養成所、文学座に行って、自由劇場を作るまで、二十代の中頃までいました」


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SWITCH INTERVIEW ―― 串田和美「『牟礼』の奇妙な人たちへ」 〜前編〜 2page

写真・浅田政志


「その家に住んでいたときの思い出は?」

「母方のおじいさんが訪ねて来てくれて、そのとき、武井武雄の絵本を持って来てくれた。あと空襲はあまりなかったけど、防空壕があって、そこに逃げたとき、床屋の5歳ぐらいの子供が防空壕の上に立って、素っ裸で、『日本帝国バンジャーイ』って叫んでた。みんなは『危ない危ない』って中に戻してたけど」

「のんびりしているようだけど、なんだか狂気が」

「そうなんですよ。撃ってくるかもしれないんだから。まあそれでも、のんびりしていたのかな。でも親は慣れない農作業を手伝ったり大変だったみたいです」

「それから、東京に戻ってくるんですか?」

「そう。それでね、戻る前に、ベッカの母ちゃんてのが、村芝居に連れてってくれたんだ。それが最初に観た芝居です」

「村歌舞伎みたいな」

「そう。たぶん地元の人がやってたんだね。小屋がなくて、ムシロで囲った小屋だった。そこに裸電球がぶら下がってた。それまでは灯火規制で暗かったのに、あんなに裸電球がぶら下がってるのかと思った」

「戦争が終わって、いきなり明るくなった」

「それが眩しくて、綺麗だと思ったんです。あとは、おにぎりを食べてたんだけど、僕の中では大きなおにぎりだと思ってたけど、今考えると手が小さかったんだね。そのおにぎりの海苔が、今のものより磯の匂いが強くて、匂いを覚えてます。あとは、ムシロに座ってたら、だんだん暖かくなってきて、藁の匂いがしてきたのとか、お百姓さんたちが、大きな声で笑って、口の中が見えるような、そんな光景でした」

「匂いも、味も、光も、笑いも」

「それが一気に入ってきたんですね。親の知らないことを自分がしている最初の記憶です。どうして演劇を始めたのかと訊かれると。その光景があるからなんじゃないかと、無自覚だけど、芝居に最初に近づいた記憶」

「頭に焼き付いている感じですね」

「はい。それが新庄の最後の記憶かもしれない」

疎開先から串田さんは、東京に戻ります。

「東京に戻ってからは、どこに住んだんですか?」

「武蔵野の、牟礼ってところです」

「自分は調布なので、牟礼は近くです」

「そうなんだ」

「いまも、畑とか残ってますね」

「そうですね。そこに4歳のときに移りました。井の頭の牟礼の生活は、ものすごく強烈で、芝居を作るときの原風景が詰まっています」

「たとえば?」

「木樵みたいな人がいて、金造爺さんという人で、腰が曲がってるんだけど、庭の木を切ってくれと頼んだら、スイスイ木に登っていったり。三鷹第五小学校ってのが建てかけの最中に台風が来て倒れちゃったり、軍人の洋館があったり。よく立川の方から進駐軍がジープでバーっときてはビールの空き缶を投げたりして、僕らはそれを拾ってた。めずらしいから取り合いしたけど、同時に何となく屈辱感も感じたり」

「今でいうと、その洋館はどこらへんなんだろう?」

「井の頭の動物園の裏あたりから、人見街道に向かう途中だった」

「今は住宅地ですね」

「でね、とにかく、その辺りには笑っちゃうような、いろんな人がいました。もうどこから話したらいいのか、とにかく変な人ばかりで」

それでは串田さんに、当時の変な人を紹介していただきます。


『新川のまーちゃん』

「新川って場所の、新川のマーちゃんは、缶を紐でぶら下げてて、棒を持って、いつも同じような時間に、ガラガラ音立ててやってくるんだ」

「目的もなく?」

「そう、それで、子供達の間では、勉強をしすぎるとああなってしまうということになってました」


『居眠り婆さん』

「居眠り婆さんはね、小さなおせんべいを入れた袋を持ってて、電車に乗るんだけど、『切符は?』というと、おせんべい出しちゃうんです。でもまあ、しょうがないかと電車に乗せてもらってた。それでね、防火用水のところで。いつも寝てた」

「切符が、せんべい!」


『雷おやじ』

「雷オヤジは、すぐ怒る。まあ僕たちが勝手に人の家に入っちゃってたんだから、今考えれば怒られて当たり前なんだけど。鉈を持って追いかけてきたりするんだ」


後編へ続く
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SWITCH INTERVIEW ―― 串田和美「『牟礼』の奇妙な人たちへ」 〜前編〜

写真・浅田政志


串田さんの芝居で、わたし自身が大きな影響を受けたのは、シアターコクーンで上演された「ゴドーを待ちながら」です。2002年だから、いまから15年前のこと、客席をまったく使わず、舞台に客席があって、入り口が楽屋口だった。

なんだか、いろんなことが訳わからなくなってきたのですが、観終わった後、「そうか、これでいいのだ」と思ったのです。そして、いまだに何かを創ろうとしているとき、なんだか自分でもわけがわからなくなったとしても、自分が「これでいいのだ」と思えば、とにかくやってみようという気持ちになりました。

このように、大きな影響を受けた方なので、「あの芝居、すごかったな」と思い返しながら、緊張して串田さんのことを待っていました。しかし、インタビュー場所のレイニーデイ・ブックストア・アンド・カフェに現れた串田さんは、会った瞬間から和やかな気持ちにさせてくれ、緊張は、すぐにほぐれていきました。

さらに、串田さんが子供時代を過ごした場所が、わたしが育った場所と物凄く近くだったので、親近感すらわいてきました。そこは、井の頭公園の近くの牟礼という所で、戦後、ここにいた人たちの話がめっぽう面白かった。

そんなこんなで、牟礼の人たちのことを多めに載せてしまいましたが、どうかご勘弁を。でも本当にユニークな人たちなので、きっと楽しく、もっと聞きたいと思うことでしょう。では、戦後の牟礼の奇妙な人たちを覗いてきた串田和美さんのインタビューをどうぞ。
(戌井昭人・記)


「お生まれは」

「築地の聖路加病院で生まれました。そのとき住んでたのが千代田区の三番町あたりで、そこは爺さんの家だったんだけど、もう亡くなっていて、大きな家だったから、掃除も大変だしということで、僕が生まれて、巣鴨に引っ越したらしい。そこから疎開です」

「じゃあ、記憶は疎開したくらいからですか?」

「そうですね、疎開の前の記憶は、2歳の頃で、焼夷弾がピューピューと落ちてきて、『綺麗だなぁ』って、でもそれは親に言われたから覚えているのかもしれません。あと巣鴨の家に文机があって、そこにピンポン球みたいのが転がっていたのを覚えているけど、それが一番古い記憶なのかな」

「疎開は、どこにしたのですか?」

「山形県の新庄から少し離れた荒小屋という土地だった。それで、3歳の誕生日に広島に原爆が落ちたんだ。でもすぐに東京には帰れないから、次の年の秋くらいまでいました」

「疎開の思い出は? 疎開というと都会の子供はいじめられたとか、よく聞きますが」

「まだ学校には通ってないから、いじめられたとかいう記憶はない。親は不憫だと思っていたみたい。食べ物もないしね。それで疎開先では、いろんな景色の記憶があって、最初は住むところがなかったから、2、3日旅館みたいなところにいたんだね。セーラー服を着た女学生が、お茶を出してくれたりしてたな。それから農家の家を借りたんですけど、そこは土間に牛がいて、通るのが怖くてね」

「土間に牛」

「はい。あとは、そこのおばちゃんが、ベッカの母ちゃんって呼ばれてた」

「ベッカって牛のことかな」

「それもあるんですけど、別の家って意味かもしれない。とにかくベッカの母ちゃんと呼ばれていて、太っていて威勢のいい感じでした。孫一(串田孫一/哲学者。串団さんのお父さん)の日記を読むと結構大変だったらしんだけど、僕は呑気で楽しかった記憶があります。弟がよちよち歩いてて、小川でカエルを見ているうちに感情移入して、ヒュッと飛び込んじゃったり」

「弟さんどうなったんですか」

「近所の兄ちゃんに助けられたりして、大騒ぎしでした。あとは、雪が降ったとき、父がおんぶしてスキーで滑ってくれたり。薪を拾いに行ったり。それで、いつまでも世話になっていられないからということで、バラックみたいな家を建てるんだけど、棟上げ式があってね、そしたら父が神主さんと一緒に台に上がって立ってたんだ。そのとき父は、痩せてて、黒いコートを着て、髪の毛がバサッとしてて、子供ながらに、なんか似合わないなって思った」

「不釣り合い」

「そう、そんな感じがしてた。場違いな人だなって。それで向こうの習慣で、お金とお餅を投げてたんだけど、それを思いだすと、なんだか切ない気持ちになって」

「どうしてですか?」

「田舎に似合わない人だな、って。違和感があってね」



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SWITCH INTERVIEW ―― ユースケ・サンタマリア「一年坊主、二年角刈り、三年自由」 〜後編〜 2page

写真・浅田政志


「大分の実家には帰ってますか?」

「とんと帰ってないです。この間、弟の結婚式で久しぶりに帰ったけど、実家には寄っていないです。マンションだし、部屋はかあちゃんの着物置き場になっているんで、人ん家のニオイで、懐かしさもない」

「やっぱり東京が良い」

「住むには東京が最高です。仕事場も近いし。大分はもう、帰る感覚ではなくて、ちょっとお邪魔するみたいな感覚です」

ユースケさんには、事前にリクエストして、大切にしているものを持って来てもらっていました(写真に写っている白い馬の置物)。

「馬です。家に飾ってる」

「どこで手に入れたんですか?」

「軽井沢でふらっと入った雑貨屋で買いました。触って気づいたんだけど、木彫りだった」

「粘土か、石の彫刻みたいで、ぱっと見、木に見えない」

「そうなんです。馬は幸運を呼ぶっていうじゃないですか。ハッピーホースっていうくらいだから。俺に幸運をくれとまでは思わないけど。それから馬の雑貨をもらったりして、コレクターではないけど、家に馬の置物が何体かあります。これは白い家具の上に置いてあるので、家具と同化してます」

「本物の馬も好きですか?」

「本物の馬だと困るでしょ、家で飼えないし。あと馬は番組で一回乗ったことがあります」

「どこで?」

「東京の代々木にある乗馬クラブで」

「明治神宮のところだ」

「そうです」

「乗れましたか?」

「馬はケンタウルスのイメージがあって、馬の背骨が俺の背骨に合体しているイメージで乗ったら、すぐに乗れました。そしたら『最初から乗れる方なんていませんよ、ぜひうちに来てくださいって』言われまして」

「それで通いはじめた?」

「いえ。バカみたいに値段が高いの。そこにいるのは、金持ち風の、普段は見ないような人ばかりでした」

「他に動物は?」

「犬を飼ってます。馬もそうだけど、人間に忠実じゃないですか。基本的に友好的ですよね。そういう動物が好きです。馬も目が優しい。猫もいいけど目が怖いでしょ、ちょっとぶっとんでたり。人間もそんな感じで目を見て判断します」

ユースケさん、休みの日はなにをしているのか、気になって訊いてみました。

「休みの日は、なんにもしてないです。一日中掃除をしたり、ひきこもりではないけど家から出ない。温泉とかにも行かない。温泉よりも入浴剤を探したりしてます」

「本当に温泉が苦手なんですね」

「湯あたりするんですよ。みんな温泉に行くと、普段やらないような入り方するでしょ。本当の湯治は、初日三分、翌日五分、七分、十分、一週間くらいで体を慣らして入るんです」

「さすが大分ですね。湯の入り方に詳しい」

「でも俺は、温泉入ると体調を崩しちゃう、体に悪いんじゃないかって」

「お酒は?」

「お酒は飲みません」

健康に気を使わないで、使っているような健康法なのでしょうか。最近は映画『あゝ、荒野』で、ボクシングのトレーナーを演じるため、ボクシングジムに通っていたそうです。しかし「ボクシングは腰を悪くします」と話していました。その後、白い置物の馬を持ちながら写真撮影をしていると、「それにしても、この馬がこんな活躍する日が来るとは思わなかった」と話していました。わたしは、ユースケさんの放つひと言がどんどん面白く思えてきて、きっと高校時代のミステリアス感は、このような感じだったのではと思いました。さらに「温泉嫌いだ」「海が嫌いだ」と話しているけれど、それは斜に構えているわけではなく、ヘンテコな真っ直ぐさがあり、それがユーモアにもなっていて、そこにもミステリアス感がある。つまり、ユースケさんの魅力は、得体の知れないミステリアス感なのではないかと思ったのです。


ユースケ・サンタマリア 1971年生まれ、俳優、タレント。2000年ドラマ『花村大介』で連続ドラマ初主演。音楽バラエティ番組『桑田佳祐の音楽寅さん 〜MUSIC TIGER〜』で人気を博する。05年公開の映画『交渉人 真下正義』で映画初主演、第二十九回日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞。08年は初監督ショートフィルム作品『R246 STORY-弁当夫婦-』、最新映画は『泥棒役者』公開中

戌井昭人 1971年東京生まれ、作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ―― ユースケ・サンタマリア「一年坊主、二年角刈り、三年自由」 〜後編〜 

写真・浅田政志


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「でね、僕は、その中学では、凄い悪い奴と一緒にいた時期があったんです。そいつの兄貴は、ちょっとカタギではない感じだったんですけど。さらにそいつは、学校の一大勢力の不良と仲悪くて、いつも喧嘩してたんです」

「一匹狼的な人だ」

「格好良く言えばね。でも、そいつと一緒だと、『ユースケは本来真面目なのに、アイツといると良くない』ってことになって、中学三年年生のとき、強制的に転校させられたんです。前の学区の中学に」

「そこには小学校の頃の友達がいた」

「そう。三分の二は知ってた。かつ中学三年は、性の目覚めとかもあって、さらに転校生って目立つから、なんだかモテるんです。だから結構いい感じに、ワァーとなってました」

「さらに、前の学校で悪い人とも付き合いがあったから、不良っぽい雰囲気があって、目立っていたんじゃないですか」

「まあ不良というか、俺は短ランというのを着てただけなんだけど。当時は、『ビーバップ・ハイスクール』とか流行ってたし。でもね、そんな不良でもないんだ。いつも授業中寝てるし、いつも遅刻だし、髪の毛立てたりしてたからなんだけど。なんていうかな、ちょっとミステリアス」

「ミステリアス」

「高校の時もそんな感じでした。フェンシング部は坊主になりようがないと思って入ったら、一年坊主、二年角刈り、三年自由。だからサーベル持つ前に辞めました。それで、バンドをはじめたら、これがバッチリだったんです。これが学校以外の部活」

「髪型は自由だし」

「そう。片方だけ切りたいんだけど、わからないんで、こっちだけ切って、とんでもないアバンギャルドな感じになったり、いまじゃ考えられないけど、ウルフカットとか」

「音楽スタジオに入りびたる感じで」

「そうです。もうそこが学校だった。水を得た魚です。昼間からビール飲んでる先輩がいたりして」

「一方学校ではミステリアスで」

「みんなが授業しているところを、眠そうな俺が髪の毛逆立てて廊下を歩いてたり。別に悪ぶってるわけではなくて、ただ眠かっただけなんだけど。あとは授業中、先生にあてられて、ぼそっと面白いこと言ったら、みんながザワザワしたり。でもクラスの人気者って感じではないんです」

「あくまでミステリアス」

「そう、軽くミステリアス。俺は全然そんなこと考えてなかったんだけど。バンドやってるらしいとか噂になったりしていて。大分の大会で優勝したりしてたんで」

「どんな音楽だったんですか?」

「レッド・ウォーリアーズをパクったような、適当なオリジナルですよ。歌詞は俺が担当なんだけど、ライブ前に書いてきたとか言って、実は書いてなくて、その場で思いつきで歌うんです。いま思えば、軽くフリースタイルみたいな感じです」

「レッド・ウォーリアーズだと歌詞のキーワードは、薔薇とかワインとか」

「ワイルドチェリーとかね。今考えると、なんだかなって感じですよね」

「現実感がない」

「その後、バンドブームになって、『イカ天』とかで下手でもデビューできるんじゃないかって時代になり、三年くらいアマチュア活動してました。それで大分のライブハウスから、博多のライブハウスとパイプができて、博多でライブをやるようになります」

「博多ではどんなバンドがいましたか?」

「ちょっと上にアンジーとか。水戸華之介さんですね。あとは、ストーンズのカバーかと思ったらオリジナルだった、というようなバンドがいたり。それでね、初めて東京でライブすることになって、渋谷のラ・ママに行ったんです。その時の対バンが、ミスター・チルドレンだった。ボーカルは桜井さん。『歌うめーな! 俺ら勝てねえじゃん』って、でも、『演奏は勝ってんな』とか負け惜しみで言ってたんだけど。東京でライブやっても客五人とかで、やっぱ駄目だと思った。それで東京住まないとどうにもならないと思ってたら、バンドがうまくいかなくなって解散です。それで意味もなく上京します」

「意味もなく?」

「そう。有頂天のケラさんが格好良くて、バンドやって劇団やってて、髪の毛立てて。俺も劇団に入ろうかとも思ったんだけど、いま思うと入らなくて良かった」

「東京は最初、どこに住んだんですか」

「渋谷、新宿は高いだろうと。で、豪徳寺が響きがいいなって」

「ご・う・と・く・じ」

「永井豪さんの豪でもあるし。格好いいなと。それで豪徳寺の駅を降りてすぐの不動産屋に入って、物件まで歩きましょうってことで、ずいぶん歩いて行った先が下高井戸でした。どんだけ歩いたんだっていう。赤堤の狭いワンルームでした」

「もう豪徳寺ではない」

「はい」

「そこを拠点に活動を?」

「活動というか、結局、一日一万円の週払いの警備員のアルバイトをやって、あとは大分に帰りたくて、お金が貯まったら帰ってました」

「せっかく上京したのに?」

「とにかく東京で暮らしてみたかったんです。修学旅行で来て憧れてたから」

「どのくらいの割合で、大分に帰省してたんですか」

「二週間に一回くらい」

「頻繁ですね」

「はい。そんな生活を数カ月してたら、芸能活動していたバンドの女友達から突然電話があって、『メジャーデビューが決まったバンドの人たちがボーカルを探してて、紹介しといたから』って。事後報告ですよ。それで、リーダーの人に会ったら、すぐ決まったんです」

「オーディション?」

「オーディションといっても、ちょっと喋っただけなんですよ」

「どんなことを」

「好きな体位とか訊かれたくらい」

「あれ」

「そのバンドのリーダーは、名の知れたバンドをやっていたんだけど、最終的に、お金で揉めたと。だから今回は人間性を見て決めるということでした。でもスタジオに入ったら、俺のボーカル力に度肝を抜かれてました」

「凄いぞ! って?」

「いや、ここまで音域が狭いのか! って、そんなこんなで現在に至ります」

その後のユースケ・サンタマリアさんは、テレビに映画に、大活躍。でも、もうちょっと話してみます。




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SWITCH INTERVIEW ―― ユースケ・サンタマリア「一年坊主、二年角刈り、三年自由」 〜前編〜 2page

写真・浅田政志


「僕ね、いまは海が苦手で、行くのも嫌なんです」

「そうなんですか」

「テトラポッドのフジツボとか気持ち悪くてね。歳をとるにつれ、いろんなことが大丈夫になっていくと思ってたら、自分は歳をとるにつれ、いろんなもんがダメになっていくんです。いまは温泉とかも気持ち悪い」

「温泉も」

「あの湯船、底を洗うとかないじゃないですか。僕は大分出身だから、近くに温泉たくさんあったんですが」

「温泉だらけですよね」

「でもね。素っ裸で男同士で入るのとかも嫌です。当時は入ってたけど。でも楽ですよ。海とか南の島に行きたいとも思わないし、温泉も行きたいと思わないし。大人になったら大概のことがOKになるのかと思ったら、狭くなっちゃった。海外旅行も大嫌い。移動とか駄目です。新幹線で大阪行くのも、クタクタに疲れます。車の移動も駄目になってきました」

なんだか、わかるようなわからないような。しかし、狭くなったそこにユニークさが生まれてくるようにも思えてきました。

「高校のころは、そういう状態ではなかったんですよね?」

「普通でした。ただ学校が嫌いだった。卒業式のときは『やったー!』って思いましたもん」

「部活は?」

「中学は軟式テニス部です。でもあんなの大人になってやらないですよね。僕は坊主にしたくなかった。野球部やサッカー部は坊主にさせられてたから。テニスなら軽い長髪みたいなイメージがあるじゃないですか」

「そうですね」

「でも入ってみたら、一年坊主、二年坊主、三年自由。仕方ないから坊主にしたけど、我ながら坊主が似合ってなくて、当時は、吉川晃司さん、デュラン・デュラン、チェッカーズが全盛、それで髪の毛を伸ばしたくて辞めました。僕、いまでも、よっぽどこの役やりたいと思わないかぎり、坊主役は断ります。逆に髪型なんかどうだって良いって俳優さんは凄いと思います。戦争ものの映画とかだと、坊主にしてくれってなるでしょ、俺はやりたくないです」

「あれま」

「だから自分で、いまだに役者だって名乗れないのは、そんな覚悟がないからなんです」

けれども、役者としても、いい味出しているユースケさんであります。逆に、絶対坊主にならないという覚悟が、いい味になっているのかもしれません。

「でもって小学六年の時にプチ引っ越しをして学区が変わったんだけど、僕は小学校を変えなかったんです。遠かったけれど通っていて。それで中学になって、その学区の学校に通うことになるんだけど、最初は友達がいなくて」

「小学校から一緒に中学になる友達がいなかった」

「そうです。その学校は不良校で『スクール・ウォーズ』みたいだったんです」

「卒業式で、不良が暴れたり」

「くわえ煙草で将棋指してたり」

「凄まじいですね」

「時代性もあって、不良が流行ってた。でね、学校に一回ワイドショーが来たんです。いつもバッドを持ってた体育の先生がいて、その先生が唯一不良に怒ることができたんです。でも持ってるバットは殴るんじゃなくて、素振りする体力づくりのためだったんです。そこをね、不良がワイドショーに売り込んだんです。『暴力教師がいる』って。それでワイドショーが来て、レポーターが『あなた暴力振るってるんでしょ』って、バッド持っているのを隠し撮りして、それがオンエアされて。まあ、ひどい学校だったんです」

時代もあったかもしれませんが、これは悪質であります。


後編へ続く

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SWITCH INTERVIEW ―― ユースケ・サンタマリア「一年坊主、二年角刈り、三年自由」 〜前編〜 

写真・浅田政志


ユースケ・サンタマリアさんとは、今回のスイッチインタビューをする前に、一度お会いしたことがありました。それは2013年に行われた、シティボーイズの公演『西瓜割りの棒、あなたたちの春に、桜の下ではじめる準備を』に、わたしが出演していたときで、公演の後、ユースケさん(サンタマリアさんを、以降省略させていただきます。すみません)が楽屋に来てくださり、共演していた、いとうせいこうさんが「戌井くん」と、ユースケさんに紹介してくれたのでした。

そのときユースケさんに、「戌井さん知ってますよ。『情熱大陸』観ました」と言われたのですが、まさかユースケさんが、わたしのことを知っているなどと思ってもいなかったので、嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになりました。それで、いとうせいこうさんに「ユースケさん、どういうわけか自分のことを知ってましたよ」と話すと、「ユースケは、そういうのいろいろ知ってるんだよ」と話していました。

そこでユースケさんは、どのようなものが好きで、どのような感じで、いままで活動してきたのか、興味深く思っていたのです。そんなこんなで、今回、お話をしていたら、テレビで見る、明るくて面白いユースケさんを垣間見せながら、その奥に、なんだか凄みのようなものが見える気がしました。ちなみに、ユースケさんは、末井昭さんの本『絶対毎日スエイ日記』が好きで、何度も読み返し、トイレに入るときはページを適当に開いて読んでいるとのこと。ではユースケさんの、なんだかわからないけれど凄みを感じさせるインタビューをどうぞ。
(戌井昭人・記)


「ぱっと思い返しても、子供の頃の記憶は、あんまり無いんですけど」

「でも皆さん喋ってるうちに、だんだん思い出してきますよ」

「そうですかね」

「で、生まれたところは?」

「大分県、大分市、芦崎ってところです」

「海の方ですか?」

「海です。うちの母方は漁師をやっていて、歩いて一分くらいで海でした。そこは道幅が狭くて車も入って来れないところで、火事になったら大変なようなところでした」

「学校へはその狭い道を」

「そこが通学路でした。いま考えたら凄いところだったな」

「海が近いから、遊びは、海に飛び込んだり」

「いや、海が汚くて。ちょっと行って、テトラポッドのある立ち入り禁止区域は綺麗なんですけど。だから海で遊ぶ時は投げ釣りでした。小学校の低学年のときに海釣りブームがありまして」

「『釣りキチ三平』とか」

「それはもうちょっと前で、『コロコロコミック』でやってた、『釣りバカ大将』とかの影響です」

ユースケさんとわたしは、ほぼ同学年で、当時の小学生は「コロコロコミック」の影響が多大でした。「あとは『ゲームセンターあらし』の“炎のコマ”とか」「お母さんがボインで、おっぱいゆらして」「歯でボタンを押したり」などなど話は尽きず。他にも「少年ジャンプ」の影響も多大だったことを話すと、「ジャンプはもう買ってないでしょう?」とユースケさんが訊いてきました。「はい、さすがにもう買ってません」。

「俺は、いまだにジャンプを買ってます。自分でも馬鹿なんじゃなんかと思ってますけど、『ワンピース』とか最初から読んでるから止められない。いまは三つくらいしか連載を読んでないんだけど、まさか四十六歳になって『少年ジャンプ』を買い続けてるとは、当時の俺も思ってなかったです」

「子供のころは、煙草屋がジャンプを早く売り出すとかで買いに行ってました」

「酒屋とかね。金曜日に売り出したりして、でもいまは普通に月曜日に買ってます。なんだか前より待ち遠しくないんだけどね」

「でも買ってしまう」

「そうなんです」

「話は戻りまして、釣った魚は食べてたんですか?」

「食ってました。自分でさばいたりして、あとは焼き倒して」

「焼き倒し」

「そう。焼き倒したなら大丈夫かと。キスとか釣れました。あと、ボラとか食ってました。本当は、ボラなんて食わないでしょ?ボラを釣る針は四つの返しがあって、そこに丸めただんごの餌を付けるんだけど、あの針は危なかった」

「どんな風に危なかったんですか?」

「友達が投げた針が、いつまでたっても海に浮かばないんで、『お前の針どこだ?』って言ったら、後ろにいた酒屋の息子の友達の太ももに刺さってて、針は返しがあるから取れなくて、病院で切ってもらったりしてました」

「危ない」

「いま思えば危険ですよ」

危ないことがありつつも、子供時代は、元気に海で遊んでいた様子のユースケさんですが。




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SWITCH INTERVIEW ―― 垂見健吾「南方のタルケンさん」 〜後編〜  2page

写真・浅田政志


「バブルの頃、タルケンさん何歳くらいだったんですか?」

「30代ですね」

「バブル時代は、どうでした」

「泡が見えたね」

「見えた」

「なんだかさ、クルーズカメラマンにもなっちゃってさ」

「クルーズカメラマン?」

「お医者様の休日雑誌みたいなのがあって、デカい豪華客船に乗って、写真を撮るんだよ。だから、タキシードを作っちゃったりしてたもん」

「船上のパーティーとか?」

「そうそう、もう泡がはじけるよね」

「そんな泡時代は、どのくらい続いたんですか?」

「4年くらいかな? そうこうしているうちに、JALの機内誌の『スカイワード』とかやるようになったんだ。それで、あっちこっちまわるようになった。今思うと運が良かったね、日本中、世界中まわってたから。そのころ『スイッチ』がきっかけで池澤夏樹さんに会ったりもした」

「そのころは、もう沖縄に住んでたんですか?」

「事務所はあったんだよね。あとは車を、ビートルに機材を積んでた。で、そのころ、JTAの機内誌の『コーラルウェイ』をやりはじめて、今年で31年くらいかな。2カ月に1回の沖縄取材。いまは、もう全部の島に行ったな」

「30年以上ってすごいですね」

「そうなんだよね」

「南方写真師というのは、いつから名乗るようになったんですか?」

「椎名さんと会ってからだね。一緒に取材するようになって、『タルケンはなんで沖縄に行くの?』って椎名さんに訊かれて、『腰痛持ちだから、南がいいんだ』って言ったら、『そうか、じゃあ南方か、南方写真師だな』って言って、いろんなところで書いてくれたんだ。それで、南方写真師タルケンってなったの」

「それから、完全に沖縄に移住したんですね」

「そうだね」

「どうして沖縄だったのでしょう?」

「沖縄の人に惹かれたのもあるけど、たまたま『コーラルウェイ』の取材で、生活や風土を撮ってて、そこが好きになったのもあります」

「そして住んでしまった」

「そうだね。いつの間にか住んでたね。いままで、いろんなところをまわって、北海道もいいし、金沢もいいな、博多もいいなって思ってたんだけど、やっぱり沖縄に行っちゃったんだ。でもおれは別に、海が好きだからってわけでもなかったんだ。最初は泳げなかったんだもん。海を眺めながらビールを飲んでいるのはいいんだけど。でも、その風土を知れば知るほど、おもしろくなっていったんだ。あんまり、のめり込んでいく性質ではないんだけど、なにかを発見するのは面白かった」

「島は全部まわったんですよね」

「全部まわった。住民が百人以下の島も取材したな。12、3箇所、そういう島があった」

「いまはどうなんだろう?」

「もっと少なくなっちゃたんじゃないかな」

「タルケンさんは、すでに沖縄の人みたいですもんね」

「そうなんだ。沖縄の人に『宮城さんに似てるね』とか言われることもあるんだ。宮城さん、全然知らない人なんだけどね。でもさ、沖縄の人は、もっと毛が濃いんじゃないかな。家の中に蚊が入って血を吸うと、毛にからまって蚊が出られなくなるって。それに比べたら、おれなんて毛深い方だけど、薄いよ」

インタビューが終わると、タルケンさん、ひょうひょうと、青山の街に消えて行きました。

最初は、なんだか異質な感じでしたが、いつの間にか、ふと、その街に溶け込んでいるようでもありました。

タルケンさんは、山から海、地球のあらゆる場所に紛れ込んで、溶け込んでしまうことが、できるのかもしれません。

今日もきっとビーチサンダルで、どこかの街を歩いていることでしょう。

沖縄には、ぜひ遊びに行きたいと思いますので、そのときは、どうぞよろしくおねがいします。


垂見健吾 1948年長野県生まれ。那覇市在住。写真家・山田脩二氏に師事したのち、出版社写真部を経て、フリーランス写真師となる。JTA機内誌『Coralway』の写真を担当。池澤夏樹氏、椎名誠氏、吉本ばなな氏等の本の写真を担当。2006年CANONカレンダー写真展、2016年『琉球人の肖像』出版記念写真展など開催。得意技はカラオケ及びクルマの運転

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第40回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第38回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


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SWITCH INTERVIEW ―― 垂見健吾「南方のタルケンさん」 〜後編〜 

写真・浅田政志


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「東京に出てきて最初に住んだ町は?」

「井の頭線の久我山」

「どんな学生生活でしたか?」

「学校には、いろんな先輩がいたから、酒ばっか飲んでたね。民家研究会ってのがあって、いちおうそこに入ったんだ」

「民家研究って、民芸運動の一環みたいなのですか」

「そうだね。でも酒ばっかだったな。ほら、研究会を作ると、学校から金が出るからさ。集まっては楽しく酒飲んでだよ。民家研究会だから、申し訳ない程度に、どこかの民家に行ったりもしてたけど、やっぱ酒だったな。それで一年があっという間に終わって」

「酒以外の授業は」

「一年のころはさ、先生が朝倉摂さんだったんだ。でもおれは、それまでデッサンなんかやったことなかったから、おれのデッサン見た朝倉摂さんに、『あんたなに描いてるの』と言われたりしてた。まあ、なにやってたんだろうね。言われるがままに、なにも作れなかった感じです。それで二年になって、夏休み終わって学校行ったら、『来なくていいよ』って言われて」

「どうして?」

「授業料を払ってないと。やっぱり、酒飲んじゃってたからね。それでも授業にもぐりこんだりしてたんだけど、とうとう辞めなくちゃならなくなって、年明けて、就職しなくちゃと思って、デザイナーになろうかと。そしたら先輩が働いてる事務所があって、そこの社長が呼んでくれたんです。そこに拾われて、二年くらいやってました。でもおれは、どうしても机の前に座ってコツコツやるのができなかった、そこで『暗室でもやったら』と言われて行ったら、そこが面白かったんだ。あとはブツ撮りの手伝いとかして、写真を覚えて、そうこうしてたら、山田脩二さんって先輩の写真家がいて、いまは淡路島で瓦焼いてんだけど」

「瓦?」

「そう、カメラマンからカワラマンになったの。その人が、運転手が必要だってことで、日本をぐるぐるまわって写真を撮りたいと、それを手伝ったり。中野の彼の住宅兼事務所に行くようになって、そこでモノクロームの現像を覚えたんです。それから、そこを出て、ひとりになって、いろいろ紹介してもらって、フリーランスになったんだ」

「いよいよカメラマン独り立ちですね」

「でも、石油ショックになっちゃったの。だからカメラじゃ食えなくて、デパートの配達を一年半くらいやって生き延びてた。そのときに同級生とかは、デザイナーを辞めたり、カメラを辞めたりしてったんだ。だから、おれも多分無理かなと思ってたとき、文藝春秋の写真部に呼んでもらって、『はい、行きます』って」

「文藝春秋の写真部では、どんなのを撮ってたんですか?」

「『週刊文春』『文藝春秋』『文学界』、なんでもやったよ。で、最後は『Sports Graphic Number』と、『くりま』っていうカラーグラビアの雑誌をやってた。そのときは、どうすれば月刊誌のグラビアを撮れるか国会図書館に行って調べて、『瀬戸内海で、こんなにタヌキがあふれてるけど、どうかね! タヌキの中行って、撮ってきましょうか』とかやってました。あと作家の方が賞をとったら写真を撮ったり、広告と作家が絡んだものとか」

「ウィスキーとかの?」

「そうです」

「あと、『Number』のとき、椎名誠さんが書いてたんだけど、一緒に取材に行ったんですよ」

「どんな取材ですか」

「プロレスラーのアブドーラ・ザ・ブッチャー」

「うわ、すごい」

「まず、馬場さんのところに挨拶をしに行って、その後、ブッチャーのところにも行ったら、後ろにもっと怖い奴がいたな」

「タイガー・ジェット・シンかな」

「そうかな。『うぉーっと』叫んだりして椅子とか投げるんだ。でね、試合のときはリングサイドでスポーツ新聞の記者に混じって撮るんだけど、ブッチャーは優しいんだ。合図してくれんだ」

「ここで撮れとか?」

「そうなんだ。目で『撮りな』って合図して、そこに投げてくるの」

「ブッチャー素敵だな」

「埼玉の巡業についていって、撮らしてもらったりもしたな。あと、そのころは『私、プロレスの味方です』の村松友視さんとか、イーデス・ハンソンさんもプロレスが好きで、プロレス観た帰りに、焼鳥屋とかに行って、一緒に飲んだな。とにかくそのころから椎名さんとのつながりができたんだ。あとは、文春にいたころのつながりとかだね」

「それから個人でバシバシと」

「うん。これなら指示されなくても、自分で撮れるなと思って、週刊誌のグラビア、アサヒとか新潮とか、どこでも行ったな。ほかには、クレジットカードの雑誌とかやってた。で、そのうちバブリーな時代になってきて」



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SWITCH INTERVIEW ―― 垂見健吾「南方のタルケンさん」 〜前編〜  2page

写真・浅田政志


「それは、どうやって食べるんですか」

「蜂の巣は六角形のハウスがあるから、そこを針で、 チュッチュッチュとやって取り出すの、中に蜂の幼虫がいてね。ものすごい栄養の詰まったやつだよ。それを集めて、お母ちゃんに渡すと、砂糖と醤油で煮てくれて、ご飯に入れて炊き込みご飯だ。蜂の巣はパイ状の断層になってるんだけど、その中に柔らかい幼虫からちょっと固くて黒っぽい成虫に近いものまで、整然と並んでいるんだよね」

「成長してるんですね」

「そうなんだよ。でも、そういうのも食うけどね」

「タンパク源ですもんね」

「あとは、さっきも話したけど鳥だね。よく鳴くメスの鳥を友達が持ってたから、それを連れてくと『ピュー』っとオスが飛んで来るんだ。それで学校から帰る頃は、かすみ網のなかで、鳥がグチャグチャになっててね、それを解いて、手の中で頭をプチっとまわすと、ウンコが『ピュー』っと飛んで、絶命するんだよ」

「ウンコ飛ぶんですね」

「そうなの。それから河原に行って、羽をむしって、家に持って帰って、料理してもらうんだ」

「美味しいんですか?」

「美味しいですよ。その鳥を捕るのを商売にしていた人もいたな、おれが小学生の頃は」

「かすみ網は、そのとき、もう違法だったんですか?」

「そうだよ。山の上の方に張ってさ、警察が来ると」

「撤去する」

「でも山の奥の方だから、警察なんて来ないんだよな」

はじめ人間の生活を続け、中学時代も山を走りまわっていたタルケンさん、高校生になります。

「高校は町までバスで通ってた。長野県立蘇南高等学校。そこには自分たちの集落じゃない人もいたし、汽車も走っていた。木曽川があって、水力発電があるんです。水力発電は、福澤諭吉の婿養子で福澤桃介ってのがやってて、その人は中部電力の電力王って呼ばれてた」

「水力発電はダムですか?」

「川を堰き止めるんじゃなくて、水をグォーッと山の上にあげて、一気にドーンと落とすんだね。とにかく、発電事業が盛んだったんだ」

「昔、長良川で見たけど、ぶっといパイプが山から下りてるやつですかね」

「そう、それだよ。シンプルな発電だね。黒部ダムみたいのじゃないよ。あんなことしたら、おれたちの集落全部水の底だよ」

「そうですよね」

「部活はやってましたか?」

「中学高校は陸上部にいたんだ。でね、1964年の東京オリンピックに出たんだ」

「え?」

「聖火ランナーの付き添いだけどね」

「伴走ですか?」

「そうなんだ。学校の先輩の女子が高校の新記録を持ってて、彼女が、聖火ランナーで走ることになったから、その伴走だね。それでメダルも貰ったんだ。金銀銅ってメダルがあるでしょ。おれが貰ったのは鉄だった。でもデザインが一緒だった」

「伴奏でもオリンピックを体験したんなら、将来は、スポーツの道に進もうと思っていたくらい、陸上にのめり込んでたんですか」

「そうなんだ。勉強は嫌いだったけど、だから体育の先生になろうかと思ってたんだ。でも甘かったね。県大会に行ってもビリッケツだしさ。それで、高校三年の時にスポーツはやめて、そうだ美術だ、美術に行こう、と思ったんだ」

「突然、美術へ」

「だって勉強嫌いだから、体育か美術しか選択がないんだもん。それに、たまたま親父の従兄弟にデザイナーがいたんだ。新幹線の椅子とか把手とかデザインしてたの」

「工業デザインですね」

「当時渡辺力先生の事務所に勤めていた、垂見健三というデザイナーで」

渡辺力さんは、ジャパニーズデザインのパイオニアと呼ばれていた、日本のデザイン業界の重鎮です。

「でね、デザインに行こうと思ったんだ。コレしかない、なんとかなるんじゃないかなと思って、でも美大は無理だから、そうか専門学校だと。それで、かろうじて補欠で桑沢デザイン研究所に引っかかったんだ」

「補欠?」

「そうなんだ、一回落ちたんだけど、すくい上げでひろってもらったの。それで、東京に出てきたら、同級生が、おじさんおばさんなんだ、ほとんど年上でさ」

「みんなは、大学出たりしてから入学したのかな」

「そうなんだよ」


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<イベント情報>
或る日の私のおきなわ
A day in the life of RYUKYU

2017.10.06(FRI)-10.31(TUE)
垂見健吾が発起人となり、沖縄にゆかりのある50人の写真家たちが一同に会した合同写真展が、沖縄コザのプラザハウスにて開催中。多彩な顔をもつ沖縄の姿を、幅広い世代の写真家がそれぞれの視点で切り取っている。写真家が愛した沖縄の新たな一面を知るまたとない機会になるだろう

RYCOM ANTHROPOLOGY
沖縄県沖縄市久保田3-1-12  
PLAZA HOUSE SHOPPING CENTER 3F

tel. 098-932-4480
facebook.com/rycomanthropology



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SWITCH INTERVIEW ―― 垂見健吾「南方のタルケンさん」 〜前編〜 

写真・浅田政志


髪の毛を頭のてっぺんでちょこんと結び、ビーチサンダルに、短パン姿で現れた、南方写真師タルケンさんこと垂見健吾さん、今回、初めて会うのだけれど、随分前から知っているような感じがして、とても楽しい気持ちにさせてくれました。その日、タルケンさんは沖縄からやって来て、お土産に、パイナップルを持ってきてくれまして、このパイナップルが美味しかった。「うまいうまい」言いながら食べていると、「そうだろう」とニコやかな顔をしております。タルケンさんと話していると、とても心地が良くて、これは旅先で知らないおじさんと仲良くなって、楽しく酒を飲んでいるような、あの感じに似ていると思いました。それでは、長野県の山の中で生まれ、現在は沖縄在住約三十年、どこに居ても、すでにそこに居るみたいな、タルケンさんの魅力を探っていきます。
(戌井昭人・記)



「お生まれはどこですか?」

「長野県、信州、木曽谷です」

「山の中ですね」

「そうです。岐阜県の県境まで五キロくらい、走っていけちゃう。中津川フォークジャンボリー、あそこの近く。山に囲まれて、日本のチベットとか言われてたからね。とにかく山ばっかだよ」

「その山の中で、タルケンさんは元気に育った」

「猿と遊んでたから。柿食って、猿に石投げて」

「猿と喧嘩してたんですね」

「猿はさ、背中を見せると攻撃してくるから、学校の行き帰りとか大変だよ。とにかく走りまわってた。蜂の子を捕ったり。網で鳥を捕って、羽むしって焼鳥にして食ってたな」

「野生児ですね」

「それくらいしか、動物性タンパク質がなかったから」

「他には、どんなものを食べてましたか」

「ヤギの乳だね。でも乳搾りをやってると蹴ってくるんだよ。子ども心に怖かったな、ヤギは」

「実家は、なにか商売をやってたんですか」

「祖父と父の代まで製材業をやってた。山だからね」

「山から木を伐って、角材とかにするんですか?」

「そう、板材にしたり」

現在は沖縄在住ですが、昔は、とにかく生粋の山っ子だったタルケンさん。

「山は、Vの字になってるでしょ」

「Vの字?」

「Vの底に川が流れて、谷になってる」

「はい」

「だからさ、九時くらいに陽が昇って、四時には沈んじゃうんだ」

「山に遮られてるから、陽が昇るのが遅くて、沈むのは早い」

「そう。日中が短いんだ」

そんな短い日中を惜しむかのように、遊びまわっていた垂見さん。

「『ギャートルズ』って漫画あったでしょ」

「はじめ人間、ゴゴンゴーンですね」

ギャートルズとは、骨ついた大きな肉をいつも食べているのが有名な、原始時代の人間を描いたギャグ漫画です。

「そうそう、まさしくはじめ人間、アレだったよ。肉をぐるぐるしなかったけど、魚をぐるぐるしてた。魚は手づかみでね」

「遊びと狩りが直結してる感じですね」

「そうだね。あと、蜂の子捕るのは、とにかく面白かったね」

「どんな風に捕るんですか?」

「子ども達だけじゃ捕れないんで、おじきとか兄ちゃん達と一緒にやるんだ。まず蛙を捕まえて、モモを裂いて、ササミ状の繊維質のところを真綿につけるんだ。それを伸ばして置いておくと、蜂がやってきて、食うんだ」

「それを食べた蜂が飛んでくと真綿がついたままんでですね」

「そう。その蜂を子ども達が追いかけるんだ。で、兄ちゃんたちが、後ろからやって来て『どこ行った?』って、そこに蜂の巣がある」

「それから?」

「次は新聞に火をつけて、セルロイドに火をつけて、巣のある穴の中に入れちゃうんだ」

「燻すんですね」

「そう。すると蜂は、ほとんど仮死状態になるの。でも巣に帰ってくる蜂もいるから、そいつらに注意しなくちゃいけない。で、何分か燻して、掘り出して、ビニールに入れて持ち帰る。でも蜂がついてくるんだ、それを避けながらね」

「逃げるんですね」

「みんなバラバラに逃げるんだ。まとまって逃げると攻撃されるから」



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SWITCH INTERVIEW ―― ひがしちか「全部東京でつくられとるばい!」 〜後編〜  2page

写真・浅田政志


「そこで、アイデアが浮かんだ」

「ぜんぜん。とにかく、なにをしたいか、なにができるかをノートに書いて、ミシンとハサミがあったから物を作ろうと思って、子どものアクセサリーとか作ったけどパッとしなかった。で、ある日の夕方、子どものお迎えがそろそろだと、玄関に行ったら、何年か前、傘に絵を描いたものがあって、これかもしれないと」

「ひらめいた」

「いや、ひらめいたというよりも、これかもしれない、これかもしれないぞと、すがるような感じでした。でも、そこからは早かったんです。まず傘を分解して、どういう作りか知って、世の中には、どんな傘があるか調べて、当時はパソコンも持ってなかったので、母子寮の事務室のタウンページで傘屋さんを探して、電話して、傘の骨とかは、どうやったら買えるか訊いて」

「傘の問屋さんて、馬喰町みたいなところに集まってるんですか?」

「いえ、大手が2社あるんですけど、ほとんどが小売の職人さんたちで、あとは中国です。でも職人さんも、ご高齢で、5年後は国産がなくなるかもって言われてます」

「じゃあ、パーツを揃えていくところから」

「はい。最初、タウンページで調べたところは、草履、履物の店で、傘の修理ができるとこだったんです。そこに昔の在庫があって、企業が修理用にと数本傘骨を残しておくのです。それがあるからと行ってみたら、20年前の10本を譲ってくれたんです。その中に傘のサンプルでとっておいたハンドルとかもあって、それがすごい格好良かったり、綺麗だったり。そういうのを見てたら、企業が100本同じのを作るなら、自分は1本だけ作るようなことが、やりたいことかもしれないと思って、ピタッとハマったんです」

「いよいよという感じですね」

「でも生地を買うにも高くて、だったら、白地に自分で描けばいいと思って、まずは10本作って、展示させてくださいと近所にあったギャラリーに持っていきました」

「それが何年前ですか」

「6年前ですね」

「ギャラリーでは売れましたか?」

「30本だして、20本売れましたけど、友人たちのお情けもあったと思います。でも、とにかく、自分のやりたいことをやろうと、それ以外ではお金をもらわないようにしようと決めました。その展示のときに、国立新美術館のミュージアムショップの人が来てくれて、『2週間後催事のスペースがあるんですけどやりませんか?』と言ってくれて、それで、『やります』って答えました」

「2週間後に出す作品はあったんですか?」

「なかったんです。それからは、ほとんど寝ずに作ってました」

「もちろん傘が素晴らしかったのもあるでしょうけど、ミュージアムショップの人は、そのとき、どうして誘ってくれたんでしょう?」

「わたしも後から聞いたら、こんな傘は他にないなと思ってくれたのと、『ちかちゃんが必死そうだったから』って言われました」

たしかに、必死な状況でもあった、ひがしさんですが、傘と出会って、そこに光のようなものが照らされたのかもしれません。

だから、ひがしさんの作る傘には、濃密な物語が詰まっているのです。


「日傘とか作ってると、稼ぎのある旦那の奥さんの余暇、主婦作家みたいに思われることがあります」

「まったく違いますもんね」

いくら生活がハードになっても、ユーモアやポワッとした感覚を失わなかったのは、娘さん、家族や周りの人々、そして、ひがしさんの、ぎりぎりでみせた、根性やふんばりの賜物です。

最後に写真の浅田くんとひがしさんがしていた会話を。


浅田くん「ひがしさんは、同じような体験をしている女性の前で講演したりしないんですか?」

ひがしさん「嫌ですよ、恥ずかしいです」

浅田くん「ひとりでやっていこうと思っている女性で、ひがしさんの話を聞きたいと思っている人は多いかも」

ひがしさん「でも、そういうので、お金もらうのは申し訳ないですし」

もし、ひがしさんと同じような体験をしている女性が、このインタビューを読んだら、希望を与えることができるかも知れません。

そして、これからも素敵な傘を作り続けてください。



<プロフィール>
ひがしちか
 1981年生まれ。2010年7月「日傘屋Coci la elle」と称して初めての日傘の展示を開催。ひとつひとつ手描きの絵柄と刺繡の1点ものが人気を博した。絵を描くことは、愛すべき日常にある形のないものを収集するような行為、というのがひがしの大切な教え。清澄白河にアトリエを併設した「コシラエル本店」を構える。今年初のビジュアルブック『かさ』を刊行 
Coci la elle

戌井昭人 1971年東京生まれ 作家、パフォーマンス集団「鉄割アルバトロスケット」の旗揚げに参加、脚本を担当。『鮒のためいき』で小説家デビュー、2013年『すっぽん心中』で第四十回川端康成文学賞、16年『のろい男 俳優・亀岡拓次』で第三十八回野間文芸新人賞を受賞。最新刊は『ゼンマイ』


(本稿は9月20日発売『SWITCH Vol.35 No.10』に掲載されたものです)


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SWITCH INTERVIEW ―― ひがしちか「全部東京でつくられとるばい!」 〜後編〜 

写真・浅田政志


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「最初はどこに住んでたんですか?」

「千葉の松戸です。3カ月お姉ちゃんと住みました。でも、そのとき父が余命1年と言われてたんですが、半年で亡くなり、さらに姉も結婚することになり、代々木上原の風呂なしアパート四畳半を借りました」

「銭湯通い」

「近くの『大黒湯』へ毎日」

「アルバイトは」

「『なか卯』。学校の課題が多くて、土日しか出れなかった。あとは、夏休みに実家に帰る飛行機代を稼ぐため、工事現場とか」

「工事現場?」

「交通整理とか開いたマンホールを守ったり」

「マンホールを守る?」

「犬が落ちないようにとかです。あとはパン工場です。そこでは商品にならない焦げたパンとかをはじくんだけど、それを食べたりしてたら、気持ち悪くなって」

「卒業後は?」

「就職活動はしないで、焼肉屋でアルバイトをしてたんです。当時は、長崎出身の女の子3人で住んでました」

「アルバイトは、ファッション系じゃなかったんですね」

「でも、『WWD』というファッション情報誌の記事に、週間スケジュールというのがあって、それを見ては、フェラガモのコレクションとか記者会見に、呼ばれてもいないのに行ってました。とにかくファッションが何なのかわかってなかったけど、知りたかったんです。それで、ちょろちょろしてたら、一緒に住んでる友達が働いてたヘアメイクの人の奥さんが、フリーのプレスの人で、友達がわたしのことを話したら、大きなブランドのデザイナーが日本に来てるからいらっしゃいと誘ってくれたりして、そこから、コレクションのDMの発送とか色々手伝うようになります」

「それは焼肉屋でバイトしながら?」

「はい。それでわたしは、シアタープロダクツというブランドが好きだったので、その人が電話して『何にもできないけど手伝わせてくれない?』って話してくれて、手伝わせてもらうようになります」

「焼肉屋は」

「最初は、バイトしながらでした」

「シアタープロダクツは何年くらいいたんですか?」

「二年くらいです。立ち上げの頃だったから、なんでもやってました」

「どうして辞めたんですか?」

「絵本を書きたいと。まあ他にも、いろいろな思いはあったんですけど。それで中華料理屋でアルバイトしながら、絵を描いて、出版社に持って行っては、断られてました。でも絵では埒があかなくて、やっぱ就職だと。それでニット会社で1カ月くらい働きます。そのころ、いろは(娘)のお父さんと会って、すぐ妊娠をしました。で、結婚はしてないんですけど、産んでから半年くらいして別れました」

「それからはどういう生活だったんですか?」

「まず目黒区役所に行ったんです。そこでオムツ替えて、給水機でピーって水飲んで、どうしようかと思ってら、1階のロビーに『お困りの方』と書いてあって、そこに行って事情を説明したら、女性支援センター、シェルターみたいなところに1週間入れてくれて、1カ月後に区の母子寮に入れてもらって、そこで生活してました」

「仕事もしなくちゃいけませんよね」

「渋谷にマザーズハローワークというのがあって、毎日通って求職表を見て、手続きして、受けてたけど全部落ちて、派遣のアルバイトをしてました」

「なんの派遣ですか?」

「電気会社の受付です。制服を着て1年間やりました。それまでは、自分の人生が1番だったけど、子どもが生まれたら、1番が子どもで、自分が作るものなんてダサいと思えて、全部ひっくり返りました。それで、まずは食べていく、普通のお母さんになりたいというのが当面の目標でした。そのときは、冷蔵庫も洗濯機も母子寮から借りていたから、あと3カ月で冷蔵庫が買える、みたいな目標があるのも結構楽しかった」

「そこらへんで、生活も少し落ち着いていった」

「でも、わたしは猫かぶっていたのかも知れません。『お母さんでなくちゃならない』といった思いとか、受付の仕事も、本当は苦しくて。自分はどこにも無いし、精神的に疲れていきました」

「飲み会とかには誘われなかったの」

「わたしなんて、アウトオブ眼中ですよ。みんなの会話には全然参加できてなくて、とにかく1日中座ってればお金がもらえるとしか考えてなかった。毎日悶々と、『いらっしゃいませ』って言ってました。居眠りしたり、いたずら書きして、怒られたりも」

「1年で辞めてからは?」

「毎日図書館に行ってました。自分がもっと楽しいと思える仕事をやるにはどうしたらいいのか、考えようと」

「図書館には、どのくらい通っていたんですか?」

「3カ月くらいです。それで独立しようと思ったんです。子どもが『ただいま』と帰ってきたら、『おかえり』といえる環境を作ろうと」



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SWITCH INTERVIEW ―― ひがしちか「全部東京でつくられとるばい!」 〜前編〜  2page

写真・浅田政志


「畑を燃やしたり」

「え? 焼畑の手伝い?」

「いえ。田舎でなにかと火を使うことが多かったんです。ゴミ収集車も来ないようなところだったから、家庭から出るゴミは庭に埋めるか、ドラム缶とかで燃やしてたんです。お風呂も火で炊いてました。そこで見せたくないテストを燃やしたり。あと隣の家に同い年の子がいて、その子と遊んでました。そこでは豚を飼っていて、ほかに、苺とか人参を育ててる農家だったんです。あるとき『遊ぼぉ』って行ったら、『ちかちゃんの声がせんね、手伝わんね』て言われて、手伝わなきゃ遊べない感じになりまして、中学の頃は、イチゴのパック詰めを手伝ってました」

「子どもと大人が一緒になっている感じですね」

「家も自動車の整備工場だったので、車好きのお兄ちゃんたちがやってきて、一緒にバスケットボールしたり、映画に連れてってくれたりしました」

「遊んでいて怪我とかはしなかった?」

「小学一年のとき、同世代で学校の行き帰りしてたんですけど、その途中、稲刈りをした後の田んぼがあって、男子が、そこに飛び降りられると言って、飛んだんです。それで、わたしも飛んで、家に帰って、トイレに入ったら、パンツに血がついてたんです。『お母さん、パンツに血がついとる』って言ったら、お母さんは生理がきたと思ったんです」

「小学一年で」

「それで病院に行ったらおそらく刈りたての稲で切れてて、縫うことになって、でも、そこでは麻酔ができず」

「うわぁ」

「看護師さんに手足を掴まれて、あたしが『ギャー』って泣いていたのを見て、お母さんも泣いてたのを憶えてます。そのあと、キリンの巾着袋にシルバーの缶を入れて、缶には脱脂綿とピンセットが入っていて、おしっこしたら、自分で消毒してました」

話がそれましたので、ひがしさんの話に戻ります。

「部活は?」

「中学はバスケットボール、小学生の頃もバスケをやっていて、県で一番になったことがあるんです。さらに、わたしキャプテンだったんです」

「すごい。それじゃあ中学は、ほぼバスケ漬けですか?」

「でもね、うちは、勉強しなさいの家だったんです。『努力しない奴に飯は食わせん』とか『お前たちは、こんな田舎で一生を過ごすな』『学生の仕事は勉強だ』って父に言われてました。とにかく、もっと外に出ろと。父は、自分も出たかったんだろうけど、いろんな事情があって出られなかったみたいで」

「でも勉強がわからないと、お兄さんに教えてもらえた」

「はい、兄も父も教えてくれました」

「高校は?」

「市内の進学校に行きます」

「高校生活は、どんなでした?」

「本当に勉強ばかりの学校で、朝六時のバスに乗って、一時間目がはじまる前、七時の補習に出たりしてました」

「とにかく勉強ばかりだったんですね」

「でも、勉強をしなくなるんです。高校二年ぐらいから、いかにサボるかという方向に向かって」

「なにしてサボってたんですか?」

「町の本屋さんに行ってファッション誌を読んでました」

「それで、ファッション方面へ行きたいと?」

「将来のことはあまり考えてなかったけど。ファッション誌を見て、こういう世界があるんだと驚いたんです。ハイファッションのビジュアルや、オートクチュールのドレスを着て宙に飛んでるような写真があって、ビックリした」

ひがしさんは、勉強をサボっていたことによって、町の本屋で将来の道につながるようなものを見つけたのかも。

「雑誌の裏を見ると東京の住所があって、『全部東京でつくられとるばい!』、『東京に行けば、全部あるじゃないとね!』と、東京への憧れが加速します。それで近所に、田舎なのにハイファッションの服を扱う店があって、そこに行くようになり、こっそりバイトをして服を買ったり、自分で作るようになります。で、ますます勉強しなくなって、これでは大学に行けないぞ、となりまして」

「ファッション誌と自分がつながっている感じだったのかな」

「妄想ですよ。さらに東京に対する妄想も」

「でも高校三年になったら、進路を決めなくてはならない」

「もう、大げんかです。父とは、だんだん会話もなくなって」

「お母さんは?」

「母はあっけらかんとしてたけど、お父さんが言うならって感じでした。それである日、『流行通信』の編集部に電話をかけて、『撮影現場に行きたいんですけど』って話したら、『いいですよ』と言われて、置き手紙をして、長崎空港に行ったんです。そしたら空港に警察の人がいて『ひがしさんですか? 一緒に帰りましょう』と言われて、帰ったら、めちゃくちゃ怒られました。でも、とにかく洋服を作れれば生きていけるという話の流れになって、それを説得材料にしたら、父と母は、なんとかわかってくれて、文化服装学院に行くことになります」

ひがしさん、いざ東京へ。


後編へ続く



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SWITCH INTERVIEW ―― ひがしちか「全部東京でつくられとるばい!」 〜前編〜 

写真・浅田政志


ひがしちかさんは、わたしが友達とやっているヘンテコなパフォーマンス集団、「鉄割アルバトロスケット」を、いつも親子で観に来てくれます。なんでも娘さんの、いろはちゃんが、「鉄割」のことを好きでいてくれてるそうで、今回のインタビューに一緒に来れるかもしれないということでしたが、『ハリー・ポッター』の映画を観ることになってしまったらしく、来れませんでした。そのかわり、いろはちゃんから、素敵な手紙をいただきました。どうもありがとうございます。また今度、会いましょう。

お母さんの、ひがしちかさんは、傘を作る方で、「コシラエル」というブランドをやっていて、清澄白河にお店があります。ひがしさんの作った傘は、「パッ」っとひらくと、「ポッ」と世界が広がるような作品です。そして、ひらいた先に、いろいろな物語を想像することができます。ひがしさん自身も、傘のような、「ポワッ」という雰囲気があります。

今回、お話をうかがってみると、このような傘をつくるまで、かなりの紆余曲折、ハードな出来事があったようです。けれども、だからこそ、ひがしさんの傘には物語が詰まっているのだと感じました。長崎でのびのび育ち、ファッションに憧れて上京、その後、いろいろあって、傘を作り出すまでの、ひがしちかさんのインタビューです。
(戌井昭人・記)



「お生まれは?」

「長崎県、諫早市の有喜町です。橘湾という小さい漁港で、電車も通ってなくて、バスも二時間に一本くらい、中学になったときにやっとコンビニができたようなところです」

「そこでどのように育ちましたか?」

「わたしは、四人兄弟の三番目で、父が車の整備工場をやっていて、敷地内に、父の手作りの家があって、そこに住んでました」

「子どもの頃は、なにをして遊んでいましたか?」

「隣の畑で遊んだり、海で泳いだりしていました。海にある石の上をいかに早く走れるかとか、深く潜って自分の限界に挑むとか。潜ると怖いじゃないですか、途中で水が冷たくなってきて、ドキドキする感じも好きでした」

「釣りは?」

「釣りはしなかったけど、手づかみで魚をとったり、潜ってモリで突いたりしてました。あとこっちでいうサザエの小さいの、ミナっていうんですけど、それをとって茹でて、マチ針で中身をくるくるって取って食べたり。遊びながら、食べ物をとるのが楽しかった。他に、ヒトデが綺麗で好きで、三十匹くらい家に持って帰って、お風呂に入れといたら、次の日、ひっくり返って全部浮いて、『ギャーッ』。いまでもトラウマになってます。あと、どんぐりをとってきて、オルゴールの箱に入れて、思い出したころに開けてみたら、蛆虫がいっぱいわいてたとか。好きだったものが嫌いになってしまって」

お姉さん、お兄さん、ひがしさん、妹さん。どのような家族だったのでしょうか?

「姉は、海外の音楽とか好きで、学生時代に海外に行ったりするようになります。兄は勉強好きで、小学四年生のころ、ハンダごてで時計を作ったりしてて、中学になってもランドセルで学校行ったりしてました」

「中学でランドセル?」

「はい。あとマイケル・ジャクソンが好きだったんですけど、当時、マイケル・ジャクソン好きってのは、『うわー、ダサか。お前の兄ちゃんダサか』って感じだったけど、気にしてませんでした。すごい優しかったから、わたしは好きだったんですけど、お兄ちゃんは、当時わたしのことをあまり好きではなかったんです。田舎だったから、同世代にヤンキーがたくさんいて、わたしは目をつけられてるから『中学入ったら、目立つな』って言われてました。兄が中学三年のとき、わたしが一年生で、ある日、晩御飯のときに、牛乳をバシャってかけられました」

「どうしてかけられたの?」

「クラスのヤンキーに、『あんたの妹、ちょっとふざけとる』とか言われたみたいで」

「お兄さんは、それが気になってたんだ」

「そうみたいです。でも、わたしに直接言えなかった。それで、わたしが、ふざけて偉そうにしてたから、お兄ちゃんは、プルプルってなってきて」

「限界に達して、牛乳をバシャっと」

「そう。『だけぇ、お前のせいやんか!』って牛乳を。でも本当に優しくて、兄が大学に入ったとき、わたしと妹で遊びに行ったんです」

「場所はどこですか?」

「福岡の大学で、寮に行ったら、絵に描いたような貧乏学生がたくさんいて、寒かったので、みんな布団かぶって勉強してました。そしたら、お兄ちゃんは『寒かろう』ってオーブントースターをつけてくれて、『ここで暖まれ』と。さらに『疲れとるやろう』って、アリナミンをくれたりしました。それで夏に行ったら、今度は『暑かろう』って、一晩中、団扇であおいでくれたり」

「お兄ちゃんはいまはどうしているんですか?」

「予備校の先生してます。自分で会社を作って」

お兄さんから、ひがしさんの話に戻りますと、とにかく、ひがしさんは自然の中で遊んでいた印象です。


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写真・浅田政志


「親には、もう完全にバレていたんですか?」

「はい、なんだかんだ言い訳をしながらも、続けてました。それで東京に出るのは、ウィークリーマンションで過ごすのが、半年まではいかないけれど、そのくらいになっていたので、引っ越すわけではなく、『東京に部屋を持とうと思う』と親に持ちかけたんです。それでアパートを一部屋借りて、荷物を置いておくということで、家を出ました」

「場所は?」

「阿佐ヶ谷でした。でも東京に出てきたら、大阪の仕事が決まったんです。NHKの朝の連続ドラマでした」

高田さんは、大阪が舞台の「やんちゃくれ」で、主人公の姉の役につきます。わたしは、この印象が強かったので、高田さんが、パワフルな感じだと思っていたのかもしれません。

「でも、それも降って湧いたような話で、わたしはオーディションのつもりで行ったんです。どうせ受からないだろうといった気楽な感じで。そうしたら、ホワイトボードに、ドラマの家系図とかが書いてあって、わたしは変わった役で、『造船所の娘で、溶接工で、その後餃子屋になって、講談師になるんですよ』と言われて」

「すでに決まってた」

「は? といった感じでした。『わたしこれやるんですか?』って訊いたら『やりますよ』と言われて。それまで深夜のドラマに二回出たくらいだったので。まして講談師ですから。でも、『大丈夫です。いけますよって』言われて、本当かなぁと思ってましたが」

「じゃあ、いきなり、ドラマの現場だったんですね」

「はい。でも、なにもわからなかったので、わかりません、といった感じで現場に入ったら。みんな優しくして、とても楽しかったんです」

「ご両親は?」

「NHKの力なのか、喜んでました。親孝行だ、くらいのことを言われて、変わるもんだなと」

「燃やすものもない」

「燃やすものもない。いまだに、その頃の写真を、その頃死んじゃった人みたいに、実家には飾ってあります」

高校のときは、クビになってしまった演劇部ですが、演劇をやってきた人生を振り返って、高田さんは次のように語ります。

「運が良かったというか、いろんな人が拾ってくれて、やってこれました。大阪芸大のことを教えてくれた先生や、大学の先生がいなければ演劇は続けてなかったですし、劇団☆新感線に入ったのもそうです。また最初に東京で芝居をやったのも木野花さんに呼ばれて、それが演劇により深く関わるきっかけになりました。さらに、それを観ていたアール・ユー・ピーという会社にいた岩間さんという方が面白がってくれて、いつもと違うものをやらないかと声をかけてくださって、それで『月影十番勝負』というユニットができたんです。なんだか、どうしようかなと思ったときに、いつも誰かが救ってくれる感じでした」

「プロデュースをするようになって、やりたいことが増えてきた感じですか」

「いや、やれないということが増えてきたという感じです。東京に出てきてから、いろんな人に会うと、自分のやっていることが小さなことだと思えて、それで、いろんなことをできるようになりたいと思うようになりました」

高田さんは、月影十番勝負で公演した『どどめ雪』という作品で、二〇一六年に紀伊国屋演劇賞個人賞を受賞します。

「壁にぶち当たりまくりの公演だったので、賞をもらうなんてありえないと思っていたんですけど。二十年やってきたご褒美、これまでお世話になってきた方たちを代表して、恥かきのつもりでいただきます、ということで、いただきました」

いままでに世話になった人、そして最初は反対していた、ご両親にも、ある意味、認められた高田さん。今後も、そしてさまざまなことを探求して突き進んでください。さらに野生の勘を忘れず、セミとりも頑張ってください。今年の夏は、素手でセミはとりましたでしょうか?

<プロフィール>
高田聖子

“せいこ”ではなく“しょうこ”。1967年奈良県生駒郡斑鳩町生まれ。大学時代に古田新太と出会い劇団☆新感線に入団。95年に自身が立ち上げたプロデュースユニット「月影十番勝負」、続く「月影番外地」では様々な演劇人とコラボレートするなど新たな挑戦を続けており、2016年「どどめ雪」で、第51回紀伊國屋演劇賞個人賞を受賞

(本項はSWITCH Vol.35 No.9に収録されたものです)


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写真・浅田政志


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「専攻は演劇だったんですよね」

「はい。でもわたしは、早々、一年生の終わりころ、大阪芸大の先輩が作っていた『劇団☆新感線』に入ることになったんです。新感線はいつも人手不足だったので、後輩は、首根っこつかまれるように連れて行かれるんですが、わたしも、そのように連れて行かれ」

「学校よりも、劇団の方へ?」

「でも親に内緒でしたし、わたしもこの劇団に骨を埋めることは考えられない、このまま続けられるわけはないと思っていたから、劇団員にはならなかったんです」

「そのとき、アルバイトとかは?」

「最初は、ドトールコーヒーでジャーマンドッグを焼いてました」

「どこのドトールで?」

「天王寺の阿倍野地下センターという、まあ、ガラの悪いところでした。そこがちょうど電車の中継地点で、交通費も出るから、いいと思ったんですけど、ガラが悪くて、娼婦のおばちゃんたちの集合場所になっていて。社長って呼ばれてるポン引きのおじちゃんがいるんですけど、わたしは、『たかだちゃん、たかだちゃん』って呼ばれてて。おじちゃんは、『客ちゃうねん』って言いながら、いつも水だけを飲んでました」

「素敵な環境ですね」

「おじちゃんは、『あの娘おる?』って、娼婦のおばちゃんのことを、わたしに訊いてくるんです。『背の小さい、あの娘』って、それで、『まだです』って答えると、『わし来たって、言うといて』と言って帰ってったりして」

高田さん、いつの間にやら、ポン引きの連絡係にもなっていました。

「学校の授業は?」

「まあまあ、行ってました。午前中バイトして、昼学校行って、夜、劇団の稽古でした」

「劇団の練習だと、帰りが遅くなりますよね。奈良までだし」

「はい」

「親にはバレなかったんですか?」

「バレました」

「あれま」

「最初は『学校の先輩のお手伝いとかせないかんから、遅くなる』と言っていたんですけど」

「まあ、嘘ではない」

「嘘ではない。それで、母親が、その芝居は、どんなものかと観に来たんです」

「いよいよですね」

「そのとき、うちの先輩の古田新太が、変態のビリーという役をやっていて、わたしは、バックダンサーをしていたんです。そのビリーの写真が、丸い団扇にプリントされて、股間のところに穴が空いているのを、お客さんに配っていて、お客さんに、その穴に指を入れて回してもらって、『お前らのオーディエンスで俺は元気になる』といったことが行われていて」

「お母さんも、それをやらなくてはならない」

「そう。それで、母は楽屋とかにも来なくて、家に帰ったら、暗い顔をしていたので、『お母さん今日来た?』って訊いたら、『お母さん、焼いた』と言うんです。『えっ? なに?』『お母さん、あの団扇焼いた』って。破って捨てても、お父さんに見つかったらエラいことになるからと、裏の原っぱで焼いてました」

「すごいな。でも高田さんは、まだ演劇を続け」

「いや、やめる気だったんです。だから劇団活動もストップして、四年生になって就職活動を続けていたんですけど、バブルの時期だったから、良いアルバイトもたくさんあって。そのときは、広告代理店と旅行会社でアルバイトをしていたので、そのまま就職してしまえと思っていたんです」

「なるほど」

「でもそのとき、大学の先生が、『大学の研究室の非常勤副手の仕事があるんだけど、やらんか?それだったら、劇団活動も続けられるぞ』って言ってくれて、そういう道もあるのかと思って、大学に残ることになり、同時に劇団活動も続けることになり」

「両親は、学校に勤めるのは良いことだと思ったんじゃないですか?」

「でも、バイトと変わらないんです。それで、非常勤は二年半で終わりだったので、今度は手に職をつけなくてはと思って、デザイナーになろうと、デザイン事務所にバイトに行ってたんです。劇団活動を続けながら」

「劇団☆新感線がバーっとなるのは?」

「それは、わたしが三十を過ぎてからです。大学に勤めた後、デザイン事務所で働きながら芝居をやっていたときは、東京のプロデュース公演に呼んでもらったりして。そのころは演劇界も潤っていたんでしょうね。ウィークリーマンションに泊まって、出稼ぎでした。それで、アルバイトせずに、なんとなくやっていけるような感じになり。まあ実家にもいたので、貯金をしていました」

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SWITCH INTERVIEW ―― 高田聖子「手づかみが好きです」 〜前編〜 2page

写真・浅田政志



「それにしても、虫ばかりとってた子が動いちゃいけないって大変でしたね」

「学校に戻ってからも、しばらく体育とかできなくて」

「治りましたという診断は、どういった感じで出るんですか」

「お医者さんが学校に行っていいと。なんか曖昧なんですけど。退院してからも、毎週血液検査とかありました」

「五、六年生のときも?」

「いえ四年生のときだけです。後はとくになにもなくて。なんだった? あの数カ月はって」

それでも、相当な忍耐が必要だったのかもしれません。

「中学は?」

「近所の斑鳩中学校というところへ通いました」

「部活は?」

「小学校五、六年生のときに、友達が『ガラスの仮面』の漫画を貸してくれたんです。それで、演劇部へ」

「いよいよ演劇ですね」

「でも、そんなに活動していたわけではなくて。それよりも。小学生の頃、吉本新喜劇が好きだったので、それの延長みたいな気分でした」

「発表会みたいなものは」

「あったんですけど、あまり記憶がなくて。民話みたいなものをやったのかな」

「もともと人前に出るのとか、お芝居は好きだったんですか?」

「わたしは、角川映画が好きで、『セーラー服と機関銃』とか、なんとなく、あんな風になれたらなとは思っていました。はじめて親なしで行った映画が『セーラー服と機関銃』でした。エッチなシーンとかあって、どきどきしました。小学生の妹にこれを見せていいのかと思ったりして」

「虫は?」

「とってました」

演劇をはじめた高田さんですが、理由は他にもあったそうです。

「お寺(家)を早く出たかったんです、子どもの頃はあまり思っていなかったんですけど。だったら、俳優とかになれば早く出れるかと」

「全く違うことをすればいい」

「なにか手段はないかと考えてました」

「高校は?」

「大阪の四天王寺学園という私学へ通います」

「そこでも、演劇を?」

「演劇部に入ったんですけど。そこは秋野暢子さんが出身で、演劇部でスカウトされたという伝説があって。もしかしたらというミーハーな気分で入ったんですが、えらい厳しい部活でした。わたしは、だいたいグズグズしてて、集団行動が得意ではなかったんです。でも演劇部は、決まりごとも多くて、嫌だなと、それで、なんかおかしいと思って、ちょっと意見したら、クビになりました」

「クビ、どのくらいでクビになったんですか?」

「半年もいなかったです」

「ずいぶん早い時期に意見をしちゃったんですね」

「はい。あまりにも理不尽な、と思いましたが。でも、そういうものなんでしょうね、クラブ活動って」

「そして帰宅部に?」

「そうです」

「じゃあ、町をうろついたり」

「いや、厳しい学校だったので、どこか寄るにも、立ち寄り許可書が必要で、だから、すぐ家に帰ってました」

「じゃあ、なにをしてたんでしょうか?」

「暇だったから本屋に行ったりしてました。そしてサブカルチャーの方へ」

「『宝島』とか?」

「あたしは、『びっくりハウス』が好きでした。そういうのを読んで、『へへへ』と笑ってました」

「演劇は、簡単に諦めることはできたんでしょうか」

「スパンと首を切られたので。それで、とにかく、高校生活に馴染めないまま過ごしてました。でも何かしたいと、そうしたら新聞広告で、NHKの放送劇団養成所というのを見つけて、授業料も安く、お小遣いでも通えると思って、応募したんです。それが高三の時でした」

「高校三年生だと、ギリギリの時期ですよね」

「そうですね」

「進路はそっちの方へと決意してたんですか」

「やりたい気持ちはあるんですが、自信は全然ないという。でも諦めきれず」

「放送劇団養成所では、どんなことをやっていたんですか?」

「基礎をやりました。広く浅く、でしたけど、朗読したり。でも同年代ではなく、大人と何かやれるというのが楽しかった」

「カルチャーセンターみたいな感じ?」

「そう、そういう感じでした。それで、そこの先生に、大阪芸大というのがあるというのを教わったんです。それで見学に行きまして。そこからは、なんていうか、なし崩し的に、じわじわそっちの方へと」

「ご両親は、そっちの道へ進むことをどう思っていたんですか?」

「どうせ芽は出ないと思っていたから。それまでも、ちびちびオーディションなど送ってはいたんですが、ことごとくダメでした。だから、親には、『わかってるだろ?』って言われていて」

「諦めろと」

「はい。だから、『わかってる』と答えてました。でも、芽が出ないのはわかっているけど、大学の四年間だけ、好きなことをさせてほしい、そのあとは絶対就職するからと言いまして」

親を説得し、いよいよ大阪芸術大学へ入学します。

(本項はSWITCH Vol.35 No.9に収録されたものです)

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SWITCH INTERVIEW ―― 高田聖子「手づかみが好きです」 〜前編〜

写真・浅田政志


高田聖子さんは、それまでテレビや映像などで見ていたことがありました。さらに「劇団☆新感線」所属ということや、粋な関西弁で、とてもパワフルな印象を持っていました。

しかし、ご本人にお会いして話をすると、イメージとは打って変わって、おっとりした雰囲気で、ゆっくりと丁寧に、お話をする方でした。わたしは、なんだか、肩すかしを食らったような気がしましたが、勝手なイメージっていけません、と思いました。ご出身を聞けば、奈良県だそうで、そうか、知り合いで奈良県の人を思い浮かべると、大概、おっとりしているような気もするのです。

でも、その奥に、なんというか、ワイルドさやパワフルさが見え隠れするところもあるような気がするのです。そして、話していると、なんと虫とりが好きだということでした。それも特にセミに特化しているらしい。なんだか、どんどん、謎になっていきますが、まずは、驚きの、生まれ、育った場所から訊いていきます。
(戌井昭人・記)



「お生まれは」

「奈良県、生駒郡、斑鳩(いかるが)町、法隆寺です」

「法隆寺?」

「はい。寺の娘っていうか、はい」

「法隆寺は、聖徳太子ですよね」

「ええ」

「お家も、法隆寺内にあるんですか」

「はい。境内にあります。馴染んだ感じの社宅みたいなのが、何軒かあって、そこに何人かのお坊さんの家族が住んでます」

「住所が法隆寺だったら、郵便も法隆寺だけで届きそうですが」

「でも法隆寺は、そこらへんの地名でもあるので、そこに山内(さんない)と書けば、届きます」

「じゃあ遊び場も法隆寺ですか?」

「境内でした。いまは、区切って入れないところがありますけど、昔は、なあなあだったんです」

もちろん、金堂や五重塔に住んでいるわけではないですが。法隆寺に住んでるというのは、やはり驚きです。国宝に囲まれての生活です。

「その頃は、どんなことして遊んでました」

「お年寄りが周りにいて育ったので、同い年の友達がなかなかできなくて、どう遊んだら良いのかわかりませんでした。だから給食室によく行ってました」

「給食室?」

「給食室では、おばあちゃんが一人で作っていたんです」

「おばあちゃんの方が、落ち着く感じだったんですね」

「はい。近所のあん摩さんのおばちゃんの所に遊びに行くとか、お土産屋さんのおばあちゃんの所に行くとか。もともとはおばあちゃん子だったんです」

「おばあちゃんも一緒に住んでいたんですか」

「そうです、家族全員で住んでました」

いろいろなおばあちゃんと友達になっていた高田さんですが、その後、同年代の友達はできたのでしょうか?

「幼稚園の年長くらいになって、じわじわと友達ができてきました」

「同年代の子とは、どんなことをして遊んでましたか?」

「かくれんぼしたり、でも隠れる所だらけだったんです。だから、ずっと隠れてて、見つけてもらえず。熱を出したりしてました」

「遊び場が法隆寺だったんですね」

「珍しいことではなかったんです。奈良県自体、お寺の子どもは沢山いるんです。でも中学高校になっていくにつれて、珍しいというのを実感しました」

それも普通のお寺ではなく法隆寺ですから。

「お寺のおつとめとは、してたんですか」

「そんなにやってないな」

「場所は特別だけど、生活としては、お父さんが法隆寺で働いているといった感じだったんですか」

「そうです。生活は普通でした。クリスマスもあったし。うちは先祖代々というわけではなく、父が小坊主で入ったので、そんなにこだわりはなかった」

逆にこだわりがあったら大変なことになりそうです。

「小学校も近所の?」

「はい」

「小学校時代は、なにをして遊んでましたか?」

「草を抜いたり、虫をとったりが多かったです。虫とりはいまでもやってるんです」

「へ?」

「年に一回は、セミを素手でとるということを、自分に課してるんです」

「どこでとるんですか」

「場所はどこでも。東京でもとります。東京のセミはとりやすいんです。油断してるから、誰もとらないと思ってるんです。去年は長野でとりました」

「野生の感を失わないようにとか」

「そうです。この感覚を失ったら終わりのような気がして」

「それは、小学生のころからですか」

「はい、なんでも手でとるのが好きでした。ザリガニとか、どじょうとか、魚とか」

「手づかみで」

「はい、手づかみが好きです。って、なんのこっちゃいって感じですが」

「育った付近なら、他にもいろいろ生き物がいますよね、ヘビとか」

「ヘビはダメです。子どものころ、木の枝と間違えて踏んずけて、両端がビャッて上がって、それから怖くて、恐ろしい」

「カエルは?」

「カエルは、好きでとってました」

もっぱら外で遊んでた高田さんですが、現在の活動につながるようなことはやっていたのでしょうか。

「ゴレンジャーごっこくらいですかね」

「女の子だからモモレンジャーですか?」

「いや、キレンジャーでした。別に太っていたわけでもないんですが」

「カレーが大好きだったとか?」

「カレーも別に、なんででしょうね。そういう役割でした」

「じゃあ子どもの頃はとにかく遊び倒していた感じですね」

「でも、わたしは、小学校四年生のときに病気をして、半年くらい学校を休んでたんです。いまは、すぐに治るんですけど、溶連菌という病気になって、ちょっと動くと、すぐに熱が出たりして。だから休んでるとき学校では、高田が死んだという噂が流れて、久々に行ったら、みんんが『うわー』って驚いて、『生きてた』って」

「じゃあ、そのときにじっくり本を読んだり」

「ないですね。教育テレビばっかり観てたけど。はい」

病気で学校を休んでいる子どもは、本などをじっくり読んで、哲学的になっていくといった、わたしのステレオタイプな考えでした。すいません。

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